みなさん、こんにちは。英語職人・時吉秀弥です。
今回が連載第5回目です。これまでの第1~4回までは、言ってみれば文法の「総論」でした。つまり英文法全体に通底する法則でした。
今回からは各論に入ります。その一発目である今回は「自動詞と他動詞」です。

名前は聞いたことある、という人は多いでしょう。“後ろに目的語がつかないから自動詞” だとか “目的語がつくから他動詞” だとか……。
そして、ここから文法の勉強が嫌になり始めた、という人もいるかもしれません。私がそうでしたから。
私の場合、嫌いになった原因は、機械的で例外の多いルールのせいでした。だから逆に言えば、自動詞と他動詞、それから修飾語と呼ばれるものの「気持ち」がわかった時に、一気に理解ができて「使える」ようになったのです。

今回は、「自動詞」「他動詞」の気持ちを理解し、自然な英文と不自然な英文を感じて区別することができるようになる方法をお伝えします。
今回のポイントは「主語から出た力を、他者にぶつけるか、ぶつけないか」です。

自動詞の「気持ち」

さて、まずは「あなたが立っている」ところを想像してください。「立っている」という動きは、「誰かに何かをする」動きですか? それとも「自分が自分でやっている」動きですか?
自分が自分で立っているだけで、誰にも何も力をぶつけていませんよね。これが自動詞です。
(「いや、地面に対して「踏んづける」という力をぶつけているじゃないか」と考える人、いると思います。でもその気持ちを表したい時には、「立っている」という言葉ではなく「~を踏んづける」という別の動詞を使うはずです。「私は地面を立っている」なんて、日本語でも言わないですしね。)

「泳ぐ」時も「歩く」時も「眠る」時も、動作は自分が自分でやっているだけで、他者に何かの力をぶつけようとする動きではありません。
「自分だけ」の動作ですから「自動詞」なんです。

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自動詞と他動詞の文法問題で典型的なのが lie( – lay – lain )(横になる、ゴロンとそこにある)と lay( – laid – laid )(横にする、寝かす、敷く)です。
ここでは自動詞の lie をイラストでイメージしてみましょう。自分が自分で横になっているだけで、他者に対して何かをしてやろうという動きではないことがわかります。

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他動詞の「気持ち」

次に「あなたがショッピングカートを押している」ところを想像してみてください。
あなたから出た「押す」という力がショッピングカートにぶつかり、その結果ショッピングカートが動きます。これが他動詞です。自分から出た力が他者にぶつかるという動きです。

先ほどは lie(横になる)という自動詞のイラストを見てみました。
今度は lay(横にする、寝かす)という動きを見てみましょう。主語から出た「寝かす、敷く」という動きがテーブルクロスにぶつかっていることがわかります。

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run(走る)は本来、自動詞です。「自分が自分で走っている」だけで、他者に何かしようとしている動きではないからです。
しかし英語では run を他動詞として「(店や会社を)経営する」という意味で使うときもあります。

My uncle runs a French restaurant. 「私の叔父はフレンチレストランを経営している。」

日本語でも「会社や店を運営する」ことを「会社や店を回していく」というくだけた表現で表すことがありますが、英語の run は「会社や店をうまく『走らせていく』」という感じなのです。
イラストを見ていただくと、「他者に力をぶつける、他動詞の感覚」がよくわかると思います。

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“目的語があるから他動詞だ” ではなく“他動詞だから目的語がある”!

ここで他動詞と自動詞を理解するのに必要な「主語」「動詞」「目的語」のとりあえずの定義をしておきましょう。

主語:力の発生源
動詞:主語から出てくる様々な種類の「力」
目的語:主語から出てくる力がぶつかる「他者」「対象」

例えば「私が空き缶を蹴る」という動きを想像してみてください。
「私」から出た「蹴る」という力が「空き缶」にぶつかります。他動詞の動きですね。

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それでは、もしボールがないのに同じ動きをしたらどうなるか想像してみてください。それって「蹴っている」ことになりますか?
……そうは感じませんよね。
つまり、勢いをつけて伸ばした足から出る力を何かにぶつけることを、我々は「蹴る」という言葉で表しているわけです。力をぶつける相手がなければ、それは「蹴る」という動きだとは感じられません。

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ですから、I kicked it. という英語は自然でも、I kicked. という英語はすごく不自然なわけです。
この「自然だと感じることができるか。不自然だと感じることができるか。」は外国語を使いこなすのにものすごく重要な感性です。

ここで皆さんが自動詞と他動詞の見分け方を習った時に、学校や塾でおそらく言われたであろう説明を思い出してみましょう。

「動詞の後ろを見てごらん。目的語があるだろう。だからこの動詞は他動詞だ。こっちの動詞は目的語がついてないだろう。だからこの動詞は自動詞だ。」

この説明は間違ってはいませんが、大きな欠点があります。それは「目的語があるから他動詞だと判断できる。でも、だからって何なんだ!」という気持ちを学習者に引き起こすということです。
この説明は自動詞や他動詞の「気持ち」は説明できていません。ですから、どんな気持ちで自動詞や他動詞を使うのかがわからない学習者は、「実感」を持って自動詞と他動詞を使い分けることができず、不自然な英語を平気で生み出してしまうのです。

「自然」「不自然」を感じることができる学習の仕方はとても重要です。
これから私たちはこう考えることにしましょう。

「他動詞は他者に力をぶつける動きなのだから、力をぶつける相手である目的語がないと動きが成立しない(つまり「空振り」)。目的語がないと『気持ち悪い』。」
「自動詞は自分が自分でやるだけで、他者に力はぶつけないのだから目的語を伴うはずがない。力がぶつからないところに目的語が置かれているなんて『気持ち悪い』。」

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第1文型と第3文型

自動詞と他動詞の気持ちがわかってくると、今までただの「文のパターン分類」という意味で捉えていた、いわゆる英語の「5文型」というのが、生きた意味を持つもの、つまり「こういうことを言いたかったらこういう文型を使いなさい」という「意味のユニット」だということがわかってきます。
今回は第1文型と第3文型だけ、説明します。

■第1文型:S+V の形です。なんで S+V で終わって、その後何も続かないんだろう? と思ったかもしれません。しかし、V の後に何も続かない、というより、V の力がV の後ろには及ばない、ということを表す文型なのです。なぜなら、第1文型=「すべての自動詞の文」だからです。第1文型は「自分が自分に何かする。他者には何もしない。」という意味の文の集まりなのです。

■第3文型:S+V+O の形です。これは要するに他動詞の文、つまり「主語が、他者である目的語に何かをする」という意味の文なのです。

修飾語って何?

では今度は修飾語について考えてみましょう。
第1文型(=自動詞の文)の例文を見てください。

I walked in the park. 「私は公園で歩いた。」

I walked. だけで終わる文は、あまり目にしないものです。普通は後ろに何かが続きます。
では、I walked の後ろにある in the park は何でしょう?
これは修飾語です。では修飾語って何でしょう?

「あってもなくても文が成立する、お飾りの情報」「形容詞か副詞」というような習い方をしたと思います。でも、それではしっくりこない、という人も多いのではないでしょうか。
修飾語も「力のやりとり」の観点で観察してみると、はっきりとわかることがあります。それは、

修飾語=「動詞の力が及ばない言葉」

という考え方です。

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イラストにある通り、walk という力は「自分が自分を歩かせる」ために使っている力で、公園に何かをしようという力ではありません。
こういう「動詞の力が及ばない言葉」が修飾語なのです。

文型の理解に困難を感じている学習者の多くは「動詞の後ろについている言葉=目的語かなぁ」という漠然とした誤解をしてしまいます。
形だけで文型を見て、動詞の気持ちや力、という観点を持たないままでいると、「動詞の後ろにあるのになぁ……。何で in the park は目的語でなくて、修飾語なんだ?」という混乱を起こしてしまうのです。

もう一つイラストを見てください。

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他動詞である第3文型の文も同じです。
イラストにあるように、I から出た kicked という力は a can にぶつかって終わりです。「私」は「通り」を蹴ろうとしているわけではありません。したがって動詞 kicked の力の及んでいない on the street は修飾語なのです。
もちろんよく言われるように「前置詞+名詞」は修飾語、という考え方は間違っていません。しかし、根本的な理解には「動詞の力が及ぶのかどうか」を考えた方がより良いということが言えます。