室町幕府再興とは

・ 室町幕府再興とは、1336年に足利尊氏が京都に開いたものの、15代将軍・義昭が1573年に織田信長によって追放されたことで滅亡したとされる武家政権を、再び立ち上げること。2017年9月、信長に仕えていたが本能寺の変と呼ばれる謀反を1582年に起こした明智光秀直筆の書状が発見された。この発見は多くのマスメディアによって報じられると同時に、本能寺の変が起こった理由として、光秀が室町幕府再興を目論んでいたという説が紹介された。

・ 光秀が本能寺の変を起こしたのは室町幕府再興を目論んでいたからだという説を有力視しているのは、日本近世史を専攻し、『謎とき本能寺の変』(講談社、2003年)『明智光秀 史料で読む戦国史』(八木書店古書出版部、2015年)など多くの著書を持つ、藤田達生教授(三重大学)。光秀が本能寺の変を起こした理由にはさまざまな説があるなか、藤田教授は以前から室町幕府再興説をとっており、光秀直筆だと判明した書状は同説を裏づけるものだと主張している。

室町幕府再興説の根拠とされる書状

・ 室町幕府再興説の根拠とされる書状とは、紀伊の雑賀(現和歌山市)を治める豪族・土橋重治に宛てられたものである。重治は信長に反抗しており、追放された義昭への協力や光秀への援軍を申し出たとされる。同書状のなかで、義昭が入洛できるように奔走する必要があると光秀は述べた。同書状の日付は1582年6月12日。本能寺の変が起きた10日後である。これらのことに基づき、光秀が信長を討った目的は室町幕府再興ではないかと藤田教授は主張している。

信長に代わる国造りということで、室町幕府を再興するのが1つの選択肢だったことがわかる。光秀が突発的に謀反を起こしたという人物論を見直して、もう1回、大きな歴史の枠組みを考えるような議論が起こることを期待したい

(引用元:NHKニュース|本能寺の変は室町幕府再興が目的か 光秀直筆の書状を確認

・ 藤田教授が室町幕府再興説を唱える根拠となった書状の大きさは、縦11.5cm、横56.7cm。岐阜県の男性が2015年に古書店で購入し、美濃加茂市民ミュージアムへ寄贈していた。藤田教授は同ミュージアムから依頼を受けて2017年5月から同書状の調査をしており、花押や筆跡が一致していたことから、光秀のものだと同定された。これまでこの書状については、東京大学史料編纂所に保管されている写しがあることが知られており、初めて原本が見つかったことになる。

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室町幕府再興報道への反論

・ 多くのマスメディアにおいて、光秀の直筆書状および室町幕府再興説が取り上げられるなか、『世界の王室うんちく大全』(平凡社、2013年)『最終解答 日本近現代史』(PHP文庫、2016年)など、多岐に渡る著書を持つ八幡和郎教授(徳島文理大学)は藤田教授の主張を否定した。それによれば、まず、義昭を入洛させることが光秀直筆の書状に書かれていたからといって、それが本能寺の変を起こした理由を説明してはいないというのである。

・ また八幡教授は、義昭の入洛は室町幕府再興に直結するわけではないとも指摘する。

豊臣秀吉は、現実に義昭を大坂、ついで京都に迎えている。そして「公方様(つまり将軍)」として遇しているが、関白太政大臣豊臣秀吉の目下の存在でしかない。聚楽第の席次などを見ると、秀吉が客を迎えるときに、摂関家、法親王などと並んで脇に座っているだけだ。

光秀が義昭を京都に迎えても、元将軍的に扱っただけで、現実の権力を握り幕府を組織して君臨する将軍にしただろうと想像する根拠はなにもない。

(引用元:アゴラ|「光秀謀反は室町幕府再興のため」というお粗末報道

(参考)
NHKニュース|本能寺の変は室町幕府再興が目的か 光秀直筆の書状を確認
アゴラ|「光秀謀反は室町幕府再興のため」というお粗末報道
ねとらぼ|本能寺の変、目的は室町幕府の再興だった? 明智光秀直筆の書状から分析
Yahoo!ニュース|本能寺の変 義昭黒幕説も 論争は続く
日本経済新聞 電子版|謀反直後の光秀書状原本 室町幕府再興説裏付けか
コトバンク|室町幕府
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