
📘 新人さんのためのマーケティング講座 Season7
Season6では「なぜこのブランドは選ばれ続けるのか」を事例で深掘りしました。
Season7では、より深く「なぜこの構造(仕組み)は崩れないのか」を解き明かしていきます。
まだ過去のSeasonを読んでいない方は、そちらからどうぞ。
▶ Season 1【全14回まとめ】|▶ Season 2【全15回まとめ】|▶ Season 3【全20回まとめ】|▶ Season 4【全20回まとめ】|▶ Season 5【準備中】|▶ Season 6【準備中】
2026年5月、味の素の決算発表がマーケットを驚かせました。純利益1,346億円——前期比91.6%増、3期ぶりの過去最高益。*1
しかしその内訳を見ると、さらに驚くべき事実が浮かび上がります。業績を牽引したのは「ほんだし」でも「クックドゥ」でもありません。世界中のデータセンターで動くAIチップの基板に使われる絶縁材料——「ABF(味の素ビルドアップフィルム)」です。*2
「うま味調味料の会社」が、「AIインフラの心臓部」を支配している。このコントラストの中に、2026年のマーケターが学ぶべき最も重要な戦略思考が詰まっています。
- 「MSG(うま味調味料)の副産物」が世界シェア95%を握るまで
- 「アミノサイエンス」という軸——技術を再定義した瞬間に市場は無限に広がる
- 「価値の種」をどこに植え替えるか——2026年のマーケターへの問い
- よくある質問(FAQ)
「MSG(うま味調味料)の副産物」が世界シェア95%を握るまで
ABFとは何か。ひとことで言えば、半導体パッケージ基板の「層間絶縁材料」です。*2
AIチップや高性能プロセッサは、非常に複雑な回路を何層にも積み重ねた基板の上に実装されています。その層と層の間を絶縁するフィルム——それがABFです。半導体の微細化・積層化が進むほど、このフィルムの精度と薄さへの要求が高まります。そして現在、世界で生産されるチップセットの95%以上でABFが使用されています。*2
驚くべきは、その起源です。ABFは味の素の看板商品「味の素(MSG)」を発酵で製造する際の「副産物」を応用して、1990年代後半に開発されました。*2 「アミノ酸を発酵させる技術」と「フィルムを精密に製造する化学技術」が交差したところに、誰も想定しなかった製品が生まれたのです。
しかも、これは「多角化を目指した」結果ではありませんでした。味の素はその経緯をこう説明しています。「多角化を目指したというよりは、経営メンバーや従業員の『アミノ酸の力はもっといっぱいあって、いろいろなことができる。もっと社会の役に立ちたい』という思いから生まれました」。*2

「アミノサイエンス」という軸——技術を再定義した瞬間に市場は無限に広がる
味の素の戦略を理解するうえで鍵となるのが、「アミノサイエンス」という概念です。
彼らは自社の事業を「食品」と「化学」で分けていません。すべては「アミノ酸の研究」の応用です。この定義の転換が、市場の可能性を根本的に変えました。
| アミノ酸の用途 | 具体的な製品・事業 | 目的 |
|---|---|---|
| 食べるため | MSG(味の素)、ほんだし、アミノバイタル | うま味・栄養の提供 |
| 計算するため | ABF(半導体パッケージ用絶縁材料) | AIチップの性能向上 |
| 治すため | 医薬品原料アミノ酸・CDMO(医薬品製造受託) | がん治療薬・再生医療 |
「食品」という定義のままでいれば、味の素はせいぜい「調味料・冷凍食品メーカー」の競争に留まっていました。しかし「アミノサイエンス企業」と自らを定義し直した瞬間、競合は食品メーカーではなく、素材化学メーカーや医薬品CDMO企業になります。そしてその新しい市場では、100年以上蓄積されたアミノ酸研究が「参入障壁」になります。*1 *2
ABFが世界シェア95%を維持できている理由も、ここにあります。他社が参入しようとしても、味の素が持つ「発酵技術×精密化学×特許網×顧客との長期関係」という複合的な障壁は、一朝一夕では越えられません。*2

「価値の種」をどこに植え替えるか——2026年のマーケターへの問い
味の素の2026年3月期の事業利益は1,811億円(前期比約13%増)。2030年までに食品系とその他事業の利益比率を1:1にするというビジョンを掲げ、高収益なABFと医薬CDMO事業で稼ぎながら、その利益を次世代の「健康」と「環境」領域に再投資する構造が完成しつつあります。*1
ここで新人マーケターに考えてほしいことがあります。
「自分たちの商品は、この棚に並ぶものだ」と決めつけていないでしょうか。味の素は「調味料の棚」に縛られませんでした。自社のコア技術(アミノ酸の研究)を「アミノサイエンス」という広大なフィールドに再定義したことで、食品・電子材料・医薬という3つの全く異なる市場で競争優位を持つ企業に変身しました。
その技術や強みは、全く別の業界の「切実な悩み」を解決できないでしょうか。ABFが証明したのは、「食べるためのアミノ酸」が「計算するためのアミノ酸」になれるということです。あなたのビジネスにある「価値の種」を、どこに植え替えられるか——2026年のマーケターに求められる最も根本的な問いです。

【本記事のまとめ】
1. MGSの「副産物」が世界シェア95%の半導体材料になった——技術の意外な転用が最強の参入障壁を作る
味の素(MSG)製造時の副産物を応用して開発されたABFが、1990年代後半の開発から30年足らずで世界のチップセットの95%以上に採用されるデファクトスタンダードとなった。発酵技術×精密化学×特許網×顧客関係という複合的な参入障壁が、他社の追随を阻んでいる。
2. 「食品」を捨て「アミノサイエンス」を選んだ——定義の転換が市場を無限に広げる
自社のコア技術を「食品」という狭い定義から「アミノサイエンス」という広大なフィールドに再定義することで、食品・電子材料・医薬という3つの異なる市場で圧倒的な競争優位を持つ企業に変身した。技術の定義を変えた瞬間に、競合も市場も根本から変わる。
3. 「価値の種」をどこに植え替えるか——技術の再定義が2026年最強の差別化戦略
「食べるため」「計算するため」「治すため」——同じアミノ酸という技術が、目的を変えることで全く異なる市場に展開できる。自社の強みを「どの棚に並べるか」ではなく「誰の切実な悩みを解決できるか」で定義し直すことが、競争のない市場を切り開く鍵だ。
よくある質問(FAQ)
味の素の純利益91.6%増は、本当に実力なのですか?
正確には「実力部分」と「一時的な要因」が混在しています。純利益増加の約3分の1は本社ビル(京橋)の売却益406億円という一時的なものです。ただし、本業を示す事業利益も前期比約13%増の1,811億円と着実に成長しており、特にABFを含む「ヘルスケア等セグメント」の急成長が牽引しています。売却益を除いた実力値でも前期を大きく上回っており、ABFとCDMO事業が本業の成長エンジンになっていることは事実です。来期(2027年3月期)は売却益が剥落するため純利益は約11%減の見通しですが、事業利益ベースでは増益を維持する計画です。
「技術の再定義」は中小企業にも応用できますか?
応用できます。重要なのは規模ではなく「自社のコア技術が、他の業界の誰かの悩みを解決できないか」という視点の転換です。たとえば木工技術を持つ工務店が「建築用の木材加工」から「インテリア家具の受託製造」へ、さらに「医療施設向けの木製什器」へと展開するのも同じ原理です。ABFの事例が教えるのは「技術そのものに価値がある」のではなく「その技術で解決できる課題がある業界に届けること」が価値を生むということです。まず自社の強みを言語化し、その強みが「全く別の業界の人」にとって何を解決できるかを問い直すことが出発点です。
ABFに競合製品が出てきたら、味の素はどうなりますか?
ABFの参入障壁は特許だけではありません。味の素の強みは「発酵技術×精密化学×特許×顧客との30年近い関係性」という複合的な障壁にあります。半導体基板メーカーがABFから別の材料に切り替えるには、製品の再設計・製造ラインの変更・品質認証の取り直しという多大なコストが発生します。これを「顧客の切り替えコストが高い」と言います。味の素自身もこれを認識しており、材料の開発・改良を継続することで「切り替えるよりも最新のABFを使い続けた方が得」という状態を維持しています。ただし技術の世界に絶対の保証はなく、研究開発への継続投資が競争優位の維持に不可欠です。
*1|「味の素(2802)決算速報|純利益+91.6%の"最高益"をそのまま喜んではいけない理由」(2026年5月7日決算発表)。2026年3月期通期:売上高1兆5,837億円(前期比3.5%増)・事業利益1,811億円(前期比約13%増)・純利益1,346億円(前期比91.6%増・3期ぶり過去最高益)・本社ビル売却益406億円・ABFを含むヘルスケア等セグメントの成長が牽引・2027年3月期純利益予想は▲10.9%を確認
*2|ビジネスジャーナル「味の素、過去最高益を支える半導体関連・医薬品開発製造受託事業の強さ」。ABF(Ajinomoto Build-up Film)が半導体パッケージ基板の層間絶縁材料として世界シェア95%以上を保有・MSGの発酵製造時の副産物を応用して1990年代後半に開発・「多角化を目指したのではなくアミノ酸の力でもっと社会の役に立ちたいという思いから生まれた」という味の素の公式発言・100年以上にわたるアミノ酸研究がすべての事業の軸であること・参入障壁(開発力・特許網・顧客との強固な繋がり)を確認
▼ 新人さんのためのマーケティング講座 Season7
「なぜこの構造(仕組み)は崩れないのか」を事例で深掘りしていきます。
- 第1回:なぜニトリは、インフレの時代でも「お、ねだん以上。」を維持できるのか
- 第2回:ノジマが証明した「モノを売る瞬間」ではなく「顧客の人生に関わる時間」を競う戦略
- 第3回:なぜUSJは、「天才マーケター」が去った後も、成長し続けられたのか
- 第4回:なぜBUYMAは、在庫を一切持たないまま、世界中の高級品を売り続けられるのか
- 第5回:LUSHが証明した「広告を捨て、信念を叫ぶ」という、広告費ゼロで熱狂を生む戦略
- 第6回:売上高39%増・過去最高益——コメ兵の「真贋マーケティング」が2026年に爆発した理由
- 第7回:なぜ「調味料の会社」が、世界中のAIチップに欠かせない素材のシェア95%を握れたのか(本記事)
▶ Season1(全14回)はこちら|マーケティングの基礎概念からWeb広告の実務知識まで
▶ Season2(全15回)はこちら|PL翻訳術、弱者の戦略、広告評価、インタビュー技術まで▶ Season3(全20回)はこちら|現場で使える顧客心理・ブランド戦略・価格設計の本質
▶ Season4(全20回)はこちら|「摩擦の除去」で読み解く世界的ブランドの設計思想
▶ Season 5【準備中】
▶ Season 6【準備中】
岡 健作(おか・けんさく)
株式会社新恵社代表取締役/スタディーハッカー(現(株)イングリッシュカンパニー) 創業者。
1977年生まれ、福岡出身。同志社大学卒業。2010年に創業。「Study Smart(合理的に学ぶ)」をコンセプトに、科学的知見に基づく英語パーソナルジム「ENGLISH COMPANY」を設立し、人気ブランドへと成長させる。 事業拡大の要として、自らオウンドメディアとSNSの編集長を兼任。オウンドメディアは最大500万PV、Instagramでは月間700万PV、フォロワー27万人規模のメディアにするなど、広告費に依存しない集客モデルを確立する。現在はその知見を活かし、「企業の認知獲得の専門家」として、論理とデータに基づいた再現性の高いメディア戦略・ブランディング論を発信している。
X→@oka_kgs / Instagram→@oka_ken2010
/ 著書(amazon)