
📘 新人さんのためのマーケティング講座 Season9
Season8では「機能から情緒へのドメイン再定義」を20社の事例で深掘りしました。
Season9でも引き続き、現代のマーケティングの本質を事例で解き明かしていきます。
まだ過去のSeasonを読んでいない方は、そちらからどうぞ。
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vol.2で取り上げたKeychronは、クラウドファンディングと「自由に変えられる設計」で成長するキーボード会社でした。今回は同じキーボード市場で、正反対の道を選んで30年生き続けているブランドの話です。
そのキーボード「HHKB(Happy Hacking Keyboard)」のフラッグシップモデルの価格は、36,850円(税込)。量販店の売場なら数百円から買える道具に、この値段です。しかも文字が一切印字されていない「無刻印」モデルまでラインナップされています。
ところがこのキーボードは、1996年12月の発売から2026年で生誕30周年を迎え、世界累計出荷台数は77万台に達しました。*1 30周年記念モデル(国内3,000台の数量限定)は直販サイトのみで販売され、全国5都市でファン交流会まで開かれています。*1 *2
高くて、癖が強い。それなのに30年愛され続ける。この構造を解剖します。
一度知ると、戻れない。静電容量無接点方式という体験の壁
HHKBが支持される核心は、打鍵感です。ファンの間で「スコスコ」と形容される、あの独特の打ち心地。それを支えているのが「静電容量無接点方式」というキースイッチです。
一般的なキーボードの多くは、電極端子を押しつけて接触させる「メンブレン方式」で入力を検知します。対して静電容量無接点方式は、円錐スプリングの押し下げで生じる電荷の容量値の変化を捉える仕組みで、物理的な接点がありません。接点がないため、二重入力の不具合(チャタリング)が発生せず、接点の摩耗もないため3,000万回以上の打鍵に耐える耐久性を持ちます。PFU自身が「キーボードにおける最上級のスイッチング方式の一つ」と呼ぶ機構です。HHKBは2003年の『HHKB Professional』でこの方式を採用して以来、押下圧45gの軽く疲れにくいタッチを磨き続けてきました。*4
重要なのは、この方式を採用したキーボードが市場にごくわずかしかないことです。量販店に並ぶ大半のキーボードでは、この感触は味わえません。つまりHHKBの打鍵感は、日常的に代替品と出会わない体験なのです。毎日何万回とキーを叩く人がこの感触に慣れてしまうと、他のキーボードが物足りなく感じられる。「一度知ると戻れない」という体験の壁が、囲い込みの第一の層になっています。
その上に、第二の層として配列の習熟が乗ります。ControlキーはAの左隣、英語配列モデルには独立したカーソルキーがなく、キーの組み合わせで操作する独特の設計です。*5 初めは思うように動かせませんが、指が配列を覚えるほど、その習熟は他のキーボードに持ち出せない投資になっていく。感触と習熟、身体に刻まれる二つの層が、スイッチングコストをユーザー自身の身体の中に築いているのです。
そしてHHKBは、この二つの層だけを動かしません。Bluetooth接続、USB Type-C、キーマップ変更機能、静音化と、利便性はモデルごとに更新され続けていますが、静電容量無接点方式の打鍵感と配列の思想は一貫して守られています。*5 2026年の30周年記念モデルで、長年守られてきた押下圧45gを初めて30gに変えたことがそれ自体ニュースになったのは、この核がいかに動かされてこなかったかの証明でもあります。*2
vol.2のKeychronは、スイッチを自由に交換させて「ユーザーそれぞれの好みの打鍵感」を探させる設計でした。HHKBは逆に、静電容量無接点方式という「一つの答え」を20年以上磨き続ける設計です。同じキーボード市場で、囲い込みの仕組みが正反対なのです。
| 項目 | 従来のキーボードメーカー | HHKB |
|---|---|---|
| キースイッチ | コスト重視の汎用方式 | 静電容量無接点方式を磨き続ける |
| 配列の思想 | 万人が使いやすい配列 | 習熟を要求する配列 |
| 製品サイクル | モデルチェンジで買い替えを促す | 指が覚える部分を変えずに一生モノにする |
| 売り方 | 量販店で広く売る | 直販と限定で深く売る |
| 売り物 | 機能を売る | 思想を売る |

思想を売る。「馬の鞍」がマスを捨てた熱量の経済圏を作った
HHKBの生みの親は、日本のコンピューター研究のパイオニアの一人、東京大学名誉教授の和田英一氏です。「マイキーボードを作りたい」という和田氏の希望を叶える形で、1996年に初代モデルが誕生しました。*2
この製品の核には、和田氏の「馬の鞍」という思想があります。アメリカ西部のカウボーイは、馬が死ぬと馬をそこに残していくが、どんなに砂漠を歩こうとも鞍は自分で担いでいく。馬は消耗品だが、鞍は自分の体に馴染んだインターフェースだからだ。今やパソコンは消耗品であり、キーボードは生涯使える大切なインターフェースである。この考え方です。*3
36,850円という価格は、機能の対価としてだけ見れば高い。しかし「生涯使えるインターフェースへの投資」という思想に共感した人にとっては、むしろ安い買い物になります。PCを何台買い替えても、鞍だけは持ち歩く。価格の正当化を、スペック表ではなく思想が担っているのです。
無刻印モデルは、その象徴です。文字がないキーボードは、タッチタイピングを完全に身につけた人しか使えません。つまり無刻印を選ぶこと自体が「私はこの道具を完全に手の内に入れている」という表明になります。実際、2003年の登場時からPFU自身が「エキスパートの証」と位置づけてきたモデルです。*4誰にでも伝わる広告ではなく、わかる人にだけわかる内向きの記号。この閉じた感覚が、持ち主の誇りとコミュニティの一体感を育てます。
販売の設計も同じ方向を向いています。30周年記念モデルは量販店に並ばず、直販サイトのみ・国内3,000台の数量限定。*2 そして全国5都市でのファン交流会。*1 30年で77万台という数字は、年平均にすれば約2.6万台。マスを狙えば物足りない規模ですが、HHKBはそもそもマスを狙っていません。少数の熱量の高い顧客に深く売り、その熱量が次の顧客を連れてくる。小さくても濃い経済圏を30年かけて育ててきたのです。

全員に好かれようとした瞬間に、誰の一番でもなくなる
HHKBの事例が新人マーケターに教えてくれるのは、「全員に好かれようとした瞬間に、誰の一番でもなくなる」という視点です。
使いやすくする。買いやすくする。誰でも入れるようにする。これらはすべて正しい改善に見えます。しかしその積み重ねの先にあるのは、誰にとっても「悪くないが、特別でもない」商品です。HHKBは逆に、不便さを残し、価格を下げず、入口を狭くしたまま、30年かけて「この道具でなければ困る」という人を77万台分積み上げてきました。
あなたの商品にも、問いを向けてみてください。ひとつめは「顧客が身体で覚えている部分はどこかを見極め、そこだけは動かさないと決められないか」。顧客が安心して習熟を投資できるのは、明日も同じであるという信頼があるからです。すべてを変えないのではなく、変えない一点を選んで宣言する。その一点は、時間とともに顧客の生活へ深く食い込んでいきます。
ふたつめは「顧客に少しの習熟を求める余地はないか」。すべてを簡単にすることが、常に愛着を生むとは限りません。少しの練習、少しの学び、少しの慣れ。顧客が自分の時間を投資したぶんだけ、その商品は「自分のもの」になっていきます。
簡単で便利な商品は選ばれやすい。しかし手放せないのは、自分が時間をかけて身体に馴染ませた道具のほうです。30年変わらないキーボードが教えてくれるのは、その順序ではないでしょうか。

【本記事のまとめ】
1. 一度知ると戻れない。静電容量無接点方式という体験の壁が囲い込みの核心
支持の核心は「スコスコ」と形容される打鍵感であり、それを支えるのが物理接点を持たない静電容量無接点方式(チャタリングなし・高耐久・押下圧45gの疲れにくいタッチ)だ。この方式を採用するキーボードは市場にごくわずかで、日常的に代替品と出会わない体験だから、一度慣れると他が物足りなくなる。その上に配列の習熟という第二の層が乗り、感触と習熟がスイッチングコストをユーザーの身体の中に築く。スイッチ交換で好みを探させるKeychronに対し、HHKBは一つの答えを20年以上磨き続ける。囲い込みの仕組みが正反対だ。
2. 思想を売る。「馬の鞍」がマスを捨てた熱量の経済圏を作った
生みの親・和田英一氏の「パソコンは消耗品だが、キーボードは生涯使えるインターフェース」という馬の鞍の思想が、36,850円という価格を「生涯への投資」として正当化する。無刻印モデルは「わかる人にはわかる」内向きの記号として持ち主の誇りを育て、直販のみ・数量限定・全国5都市のファン交流会という設計が、少数の熱量の高い顧客に深く売る経済圏を支える。30年で77万台は、あえてマスを狙わない規模だ。
3. 全員に好かれようとした瞬間に、誰の一番でもなくなる
「顧客が身体で覚えている部分を見極め、そこだけは動かさないと決められないか」「顧客に少しの習熟を求める余地はないか」。顧客が安心して習熟を投資できるのは明日も同じであるという信頼があるからだ。簡単で便利な商品は選ばれやすいが、手放せないのは自分が時間をかけて馴染ませた道具のほうである。
よくある質問(FAQ)
「一度使うと戻れない」ような体験の差は、どうすれば作れますか?
鍵は「差が身体でわかること」と「使用頻度」の掛け算です。HHKBの打鍵感が囲い込みとして機能するのは、毎日何万回も触れる道具だからこそ、静電容量無接点方式のわずかな感触の差が蓄積して大きな体験差になるためです。自社の商品でも、顧客が最も高い頻度で触れる接点を特定し、そこに競合が簡単には真似できない感覚的な差を仕込むことが出発点になります。ただし体験の差はスペック表や言葉では伝わりにくいため、試せる機会(店頭での体験・サンプル・返金保証など)とセットで設計することが必要です。数字で伝わる差は比較されますが、身体でしかわからない差は記憶されます。
ニッチに絞ると、事業の成長に限界がありませんか?
規模の上限はあります。ただし、その上限の中で得られるものが違います。マス向け商品は競合との比較にさらされ、価格競争と広告費の消耗戦になりがちです。一方、思想で選ばれるニッチ商品は、価格を維持でき、顧客が口コミで新しい顧客を連れてきて、限定モデルやコミュニティ施策が高い反応率で機能します。30年で77万台という数字は、台数としては小さくても、値引きなし・高単価・広告費最小で積み上がった77万台です。成長の「速さ」や「大きさ」ではなく「利益の質」と「持続年数」で見たとき、ニッチ戦略は十分に合理的な選択肢になります。
顧客に習熟を求める商品は、最初の一歩をどう踏み出させればいいですか?
「乗り越えた先」を先に見せることです。HHKBの場合、熟練ユーザーの語る打鍵の心地よさ、無刻印を使いこなす姿、何年も同じ道具を使い続ける誇りが、SNSやレビューを通じて「あの領域に行ってみたい」という憧れとして機能しています。習熟のハードルを隠すのではなく、ハードルの先にある景色を魅力的に描く。加えて、最初の一歩の不安を減らす仕組み(返品保証・お試し機会・移行ガイドなど)を用意すれば、憧れと安心の両方が揃います。「簡単です」と言って集めた顧客は簡単に離れますが、「練習が要ります。でもその価値があります」と正直に言って集めた顧客は、覚悟を持って入ってくるぶん深く定着します。
*1: 株式会社PFU公式プレスリリース|HHKB生誕30周年プロジェクト始動 支えてくださったすべてのファンとともに、特別な一年へ
*2: 株式会社PFU公式プレスリリース|【30周年記念】押下圧30g、フェザータッチの記念モデル『HHKB Professional HYBRID Type-S』を限定発売
*3: 週刊アスキー|HHKB生みの親・和田英一先生を迎えて5回目のHHKBユーザーミートアップが開催!
*4: PFU公式|HHKB HISTORY ~HHKBの軌跡~
*5: PFUダイレクト|HHKB Professional HYBRID Type-S
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現代のマーケティングの本質を事例で深掘りしていきます。
岡 健作(おか・けんさく)
株式会社新恵社 代表取締役。
1977年生まれ、福岡県出身。同志社大学文学部英文学科卒業。2010年に株式会社恵学社(現・株式会社イングリッシュカンパニー)を創業。2014年に学習メディア「STUDY HACKER」を立ち上げ、編集長を通算10年以上務める。STUDY HACKERは最大で月間500万PV、STUDY HACKERのInstagramは月間700万PV、フォロワー28万人(2026年10月7日時点)。2026年に新恵社を設立し、自社のメディアで読者と直接つながる「広報のD2C」を掲げる。著書に『勉強の戦略』(朝日新聞出版)など。
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