
📘 新人さんのためのマーケティング講座 Season4
Season3までは、事例を中心にマーケティングの原則を学んできました。
Season4では、Season3だけではご紹介しきれなかった事例をさらに発展的に取り上げていきます。
まだ過去のSeasonを読んでいない方は、そちらからどうぞ。
▶ Season 1【全14回まとめ】|▶ Season 2【全15回まとめ】|▶ Season 3【全20回まとめ】
隣の人の顔が見えない。店員の姿も見えない。注文は紙に書いて、すだれの下から差し出す。
初めて一蘭に入ったとき、僕は「ラーメン屋」ではなく「自習室」に迷い込んだのかと思いました。左右は仕切り板で区切られ、正面はすだれで厨房が隠されている。聞こえるのは、自分がスープをすする音だけ。
ところが——ひとくちめのスープを飲んだ瞬間、すべてが腑に落ちます。とんこつの旨みの層。秘伝のたれの辛み。麺の硬さとスープの絡み方。普段は「おいしい」のひと言で済ませてしまう味覚の細部が、驚くほど鮮明に意識に浮かび上がるのです。
1960年創業、2026年現在で国内84店舗・海外8店舗。売上高432.8億円(2024年度)。*1 インバウンド需要の追い風もあり、渋谷や道頓堀、新宿の店舗には連日、世界中から観光客が行列を作っています。メニューはとんこつラーメンただ一品。なのに、なぜこれほどの熱狂を生めるのでしょうか。
その答えは、「味」そのものではなく、味を「感じさせる環境」の設計にあります。
「美味しさ」は舌ではなく、脳で決まる
そもそも、私たちが「美味しい」と感じるメカニズムは、舌だけでは完結しません。
オックスフォード大学の実験心理学者チャールズ・スペンス教授は、著書『Gastrophysics(ガストロフィジクス)』や一連の研究のなかで、「味覚の知覚は、すべての感覚の統合によって成り立つ」と述べています。*2 食べ物の見た目(視覚)、咀嚼の音(聴覚)、食器の重さ(触覚)、香り(嗅覚)——これらが複雑に絡み合って、脳が「おいしい」という判断を下すわけです。
裏を返せば、こういうことです。味覚以外の感覚に「ノイズ(雑音)」が入り込むと、味の知覚そのものが鈍くなる。
認知心理学の研究では、認知的な負荷(気が散る状態)が高まると、甘味や苦味の感受性が低下することが示されています。*3 つまり、賑やかな店内で隣の人の会話が耳に入り、店員に「ご注文は?」と聞かれ、向かいの友人と雑談しながら食べるラーメンは——味そのものが同じでも——脳が処理する「おいしさ」の解像度が下がっている可能性があるのです。
一蘭は、このメカニズムを逆手に取りました。

「味集中カウンター」——感覚のノイズを消す設計思想
一蘭の「味集中カウンター」は、入店から退店までの一連の流れを含む「味集中システム」として特許を取得しています。*4
このシステムが排除しているものを、整理してみましょう。
| 排除される「ノイズ」 | 一蘭の仕掛け | 残る感覚 |
|---|---|---|
| 隣の人の視線・動作 | 左右の仕切り板 | 嗅覚(スープの香り) 味覚(とんこつの旨み・秘伝のたれ) 触覚(麺の食感) 聴覚(自分がすする音) |
| 厨房の風景・作り手の顔 | 正面のすだれ | |
| 店員との会話 | 記入式オーダー用紙+券売機 | |
| 「誰が作ったか」という先入観 | すだれで調理者を隠す | 「一蘭のラーメン」としての純粋な評価 |
| メニュー選びの迷い | とんこつラーメン一品のみ | 「何を食べるか」ではなく「どう味わうか」への集中 |
注目すべきは、最後の行です。一蘭はメニューをたった一品に絞り込むことで、「何を注文しよう」という意思決定の負荷(認知コスト)までも排除しています。代わりに用意されているのが、味の濃さ・こってり度・にんにく・ねぎ・チャーシュー・秘伝のたれ・麺の硬さという7項目のオーダー用紙。「選ぶ楽しさ」は残しつつ、「迷うストレス」だけを消している。じつに巧みな設計です。
代表の吉冨学氏は、「おいしさは、味以外の情報や先入観でも左右される」と語っています。*5 まったく同じ味のラーメンでも、「店長が作ったもの」と知ると「より美味しい」と評価する人がいる。すだれで作り手を隠すのは、純粋に「味」だけで評価してもらうための仕掛けでもあるのです。

「没入」と「障壁の除去」——2つの心理効果
① 感覚の遮断がもたらす「フロー状態」
心理学者ミハイ・チクセントミハイが提唱した「フロー状態」——目の前のタスクに完全に没入し、時間の感覚すら忘れる体験です。フローに入るには、「注意を逸らす外的刺激が少ないこと」が条件のひとつとされています。
一蘭の味集中カウンターは、まさにその条件を物理的に実現した空間です。視覚と社会的刺激を遮断することで、顧客は目の前の丼にだけ意識を向けることになる。スープの温度変化、麺がほぐれる瞬間、たれが溶け出すタイミング——普段なら見逃してしまう味覚の「微差」を、脳がはっきりと拾い上げるのです。
先述のスペンス教授の研究チームも、騒がしい環境では甘味や塩味の知覚が抑制されることを報告しています。*2 つまり一蘭は「静寂」という環境そのものが、スープの味を引き立てる「調味料」になっているわけです。
② 心理的障壁の除去——「ひとりラーメン」のハードルを消す
じつは味集中カウンターの「仕切り板」には、もうひとつの重要な役割があります。
開発のきっかけは、創業者・吉冨氏が自ら行った街頭アンケートでした。女性から「ひとりでラーメン屋に入りにくい」「替玉を頼むところを見られたくない」という声が多く寄せられたのです。*5
仕切りによって、隣の客の視線は完全に遮断されます。麺をすする姿を誰にも見られない。替玉は声を出さず、プレートをボタンの上に置くだけでチャイムが鳴る。この仕組みが、「女性がひとりでラーメンを食べる」という行為から恥ずかしさを完全に取り除いたのです。結果として、一蘭の女性客比率は一般的なラーメン店を大きく上回っています。*5
さらに、オーダー用紙は日本語のほか英語・中国語(繁体字・簡体字)・韓国語にも対応。*4 店員とひとことも交わさずに注文が完結するこのシステムは、言葉の壁を持つインバウンド観光客にとっても「心理的障壁のない飲食体験」として機能しています。

「何を消すか」で、商品は生まれ変わる
さて、最後にこの話をあなたの仕事に引き寄せましょう。
一蘭の事例が教えてくれるのは、「商品そのもの」を改良するだけがマーケティングではないということです。一蘭のスープが美味しいのは間違いありません。しかし、それだけで売上432億円に到達したわけではない。彼らが磨き上げたのは、味そのものに加えて、「味を感じ取る環境」のほうでした。
この連載でも、vol.15「チープカシオ」では機能の引き算を、vol.17「レコード」では便利さの引き算を取り上げました。一蘭は「感覚の引き算」です。共通するのはすべて、「足し算」ではなく「引き算」によって価値を生み出している点です。
あなたがいま、マーケティングを担当している商品の価値を高めたいとき。商品スペックの改善に行き詰まったとき。こう問いかけてみてください——
「顧客がこの商品を体験するとき、邪魔になっているものは何だろう?」
お客様に何を「与えるか」ではなく、何を「消すか」。その視点ひとつで、同じ商品の体験価値は劇的に変わるかもしれません。
商品を磨くな、環境を磨け。顧客の体験を邪魔する「ノイズ」を消すことが、最高の付加価値になる。
【本記事のまとめ】
1. 一蘭は「味」だけでなく「味を感じる環境」を設計している
仕切り板・すだれ・記入式オーダーで視覚と社会的刺激を遮断し、顧客の意識を味覚と嗅覚に集中させる「味集中システム」(特許取得済み)を構築した。
2. 感覚のノイズを消すと、味の解像度が上がる
認知心理学の研究では、注意を逸らす外的刺激が多いほど味覚感受性が低下する。一蘭はこのメカニズムを逆手に取り、「静寂」を調味料に変えた。
3. 「不便」を「ベネフィット」に転換し、ターゲットも拡大した
「話せない・狭い」という制約が「味に集中できる」という価値に転換されると同時に、「ひとりでラーメン屋に入りにくい」という女性やインバウンド観光客の心理的障壁を除去した。
4. 「何を消すか(引き算)」の視点で、体験価値は劇的に変わる
商品スペックの改善に限界を感じたら、「顧客の体験を邪魔しているノイズ」を探してみよう。
よくある質問(FAQ)
「孤独な食事」はネガティブな体験にならないのですか?
一蘭の巧みな点は、「孤独」を「没入」へとリフレーミングしていることです。カウンター上部には一蘭の歴史やラーメンのこだわりが書かれたパネルがあり、食前の時間もブランドストーリーの「読書体験」に変えています。さらに、7項目のカスタマイズで「自分だけの一杯を作る」という能動的な参加感が加わることで、ひとりの時間がむしろ「贅沢なセルフケア」として肯定される設計になっています。
一蘭のモデルは飲食以外にも応用できますか?
十分に応用できます。考え方の本質は「消費環境のノイズ除去」です。たとえば、高級ヘッドフォンの試聴ブース、化粧品のパーソナルカウンセリング個室、あるいはオンライン学習の「集中モード」など、「商品の本質的な価値に意識を向けてもらうために、邪魔なものを消す」という設計思想はあらゆる業種に転用可能です。
一蘭がメニューを一品に絞っている理由は何ですか?
メニューを絞ることにはふたつの効果があります。ひとつは、顧客の「選択の負荷」を減らし、味に集中してもらうため(認知コストの削減)。もうひとつは、品質の均一化です。一蘭はセントラルキッチン方式でスープや秘伝のたれを糸島の自社工場から全店舗に直送し、どの店舗でも同じ味を提供しています。一品に絞ることで、全92店舗で「味の再現性」を保証できるのです。
*1 一蘭公式サイト「会社概要」(2026年1月時点)。売上高:432.8億円(2024年度実績)。店舗数:92店舗(国内84店舗、海外8店舗)。海外は香港3店舗、台湾2店舗、ニューヨーク3店舗。代表取締役社長:吉冨学。創業:1960年(昭和35年)。一蘭1号店「那の川日赤通り店」は1993年開店。
*2 Spence, C. (2015). "Multisensory Flavor Perception." Cell, 161(1), 24-35. フレーバーの知覚はすべての感覚の統合によって成り立つことを示した総説論文。また、Yan & Dando (2015) は騒がしい環境下で甘味や塩味の知覚が抑制されることを示し、Spence, C. & Piqueras-Fiszman, B. (2014). The Perfect Meal: The Multisensory Science of Food and Dining. Wiley-Blackwell. では「レストランの雰囲気が食事の知覚と行動に劇的な影響を与える」ことが体系的にまとめられている。
*3 Liang, P., Roy, S., Chen, M-L. & Zhang, G-H. (2013). "Visual influence of shapes and semantic familiarity on human sweet sensitivity." Behavioural Brain Research. および同研究チームのLiang et al. (2018). "Memory Load Influences Taste Sensitivities." Frontiers in Psychology, 9, 2391. 認知的負荷(記憶課題)が高まるほど、甘味・苦味の感受性が有意に低下することを実験的に示した。
*4 一蘭Wikipedia、一蘭公式コラム「味集中カウンター」、一蘭プレスリリース(2022年2月、水戸店)。「味集中システム」は味集中カウンター・オーダーシステム・替玉注文システムの総称で特許取得済み。オーダー用紙は日本語・英語・中国語(繁体字・簡体字)・韓国語に対応。2022年の水戸店では完全個室型の最新味集中カウンターを初導入。
*5 メシ通(ホットペッパーグルメ)「一蘭の『味集中カウンター』はどうやって生まれたのか」(2020年2月)一蘭広報・葛城氏インタビュー。仕切り板は5号店・博多店から導入。きっかけは吉冨氏が行った街頭アンケートで「ひとりでラーメン屋さんに入りづらい」「替玉を頼むところを見られたくない」という女性の声。販促会議「ラーメン店・一蘭、『味集中カウンター』の裏側に迫る」では吉冨氏が「おいしさは味以外の情報や先入観でも左右される」「同じラーメンでも『店長が作った』と知ると美味しく感じるケースがある」と語っている。
▼ 新人さんのためのマーケティング講座 Season4
Season3だけではご紹介しきれなかった事例をさらに発展的に取り上げていきます。
- 第1回:なぜマクドナルドは、わざわざ「割安なセット」を用意するのか?
- 第2回:なぜ私たちは、リッツ・カールトンを「最高だった」と記憶するのか?
- 第3回:なぜAppleは、「捨てられる箱」のデザインに何百時間もかけるのか?
- 第4回:なぜディズニーは、何もない場所に「ポップコーンの匂い」を漂わせるのか?
- 第5回:なぜブルーボトルコーヒーでは、15分待たされても満足度が高いのか?
- 第6回:水に「ドクロ」を描いたら、2,000億円企業になった
- 第7回:なぜチョコザップは、ジムから「着替え」と「シャワー」を奪ったのか?
- 第8回:なぜサイゼリヤは、インフレの時代に300円のドリアを守り抜けるのか?
- 第9回:なぜワークマンは、職人向けの服を「おしゃれなキャンプウェア」に変えられたのか?
- 第10回:なぜサントリーは、おじさんのウイスキーを若者のハイボールに変えられたのか?
- 第11回:なぜメルカリは、他人の不用品を「宝物」に変えられたのか?
- 第12回:なぜくら寿司は、満腹の客に「あと1皿」を注文させることに成功したのか?
- 第13回:なぜポカリスエットの「タブーの青」は、夏の代名詞になったのか?
- 第14回:なぜ任天堂は、スペック競争を降りることで世界一になれたのか?
- 第15回:なぜ2,000円の『チープカシオ』は、時計好きに愛されるのか?
- 第16回:無印良品が『これがいい』ではなく『これでいい』を目指す理由
- 第17回:なぜストリーミング全盛時代にアナログレコードが売れ続けるのか
- 第18回:なぜスタンレーのタンブラーは突如として売上を10倍に伸ばしたのか
- 第19回:なぜ一蘭は客を孤独にさせることで最強のブランドを築けたのか(本記事)
- 第20回:なぜダイソーでは予定にないものまでカゴに入れてしまうのか
▶ Season1(全14回)はこちら|マーケティングの基礎概念からWeb広告の実務知識まで
▶ Season 2(全15回)はこちら|現場で成果を出すための実践スキル
▶ Season3(全20回)はこちら|現場で使える顧客心理・ブランド戦略・価格設計の本質
岡 健作(おか・けんさく)
スタディーハッカー 代表取締役社長
1977年生まれ、福岡出身。同志社大学卒業。2010年に創業。「Study Smart(合理的に学ぶ)」をコンセプトに、科学的知見に基づく英語パーソナルジム「ENGLISH COMPANY」を設立し、人気ブランドへと成長させる。 事業拡大の要として、自らオウンドメディアとSNSの編集長を兼任。オウンドメディアは最大500万PV、Instagramでは月間700万PV、フォロワー27万人規模のメディアにするなど、広告費に依存しない集客モデルを確立する。現在はその知見を活かし、「企業の認知獲得の専門家」として、論理とデータに基づいた再現性の高いメディア戦略・ブランディング論を発信している。
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