
「頭がいい人になりたい」「頭がいい人ほど評価される」——。日常的によく使われる「頭がいい」というこの言葉を、私たちは疑うことなく受け入れています。しかし、その「頭のよさ」とは、そもそもなにを指しているのでしょうか。評価の基準が曖昧なまま広がり続けるなかで、知らず知らずのうちに能力主義という価値観を植えつけられているのかもしれません。『「頭がいい」とは何か』(祥伝社)の著者・勅使川原真衣さんに、「頭がいい」という言葉の背後にある社会の構造、その危険性について聞きました。
構成/岩川悟 取材・文/清家茂樹 写真/石塚雅人
【プロフィール】
勅使川原真衣(てしがわら・まい)
1982年5月17日生まれ、神奈川県出身。東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。外資コンサルティングファーム勤務を経て独立。教育社会学と組織開発の視点から、能力主義や自己責任社会を再考している。2020年から乳がん闘病中。2児の母。著書に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)、『働くということ』(集英社)、『職場で傷つく』(大和書房)、『格差の"格"ってなんですか?』(朝日新聞出版)、『学歴社会は誰のため』(PHP研究所)、『「働く」を問い直す』(日経BP)、『人生の「成功」について誰も語ってこなかったこと』(KADOKAWA)、『組織の違和感』(ダイヤモンド社)、編著書に『「これくらいできないと困るのはきみだよ」?』(東洋館出版社)がある。
「頭がいい」という言葉がこれほど使われるわけ
「頭がいい」という言葉はよく使われますが、ここまで意味が曖昧な言葉もないかもしれません。仕事ができる人を見ても、勉強の成績がいい人を見ても、あるいは要領よく立ちまわる人を見ても、私たちはつい「頭がいい」と表現します。でも、なぜそうした尺度で人を評価するのでしょうか。
その背景には、「能力」という考え方があります。人間社会には、お金や土地、食料など、生きていくために必要な資源がありますが、それらは無限ではありません。そのため、社会は誰にどれだけ配分するのかを決めなければならず、そのときに生まれたのが能力主義です。能力が高い人には多くを与え、そうでない人には少なくする。たしかにこれは、身分や血筋で決めるよりも合理的で公平にも思えます。近代社会が能力主義を受け入れてきたのは、そのためです。
ただ、ここで見落とされがちなことがあります。それは、能力そのものを誰も見たことがないということです。能力は目に見えません。それでも私たちは、能力が実在するものだと考え、測定し、比較し、序列化してきました。そして現代では、その曖昧な能力をひとまとめにして表現する言葉として、「頭がいい(悪い)」が使われているのです。
考えてみれば不思議な話です。「頭がいい(悪い)」の「頭」とはなんでしょうか? IQなのか、学歴なのか、それとも仕事の成果なのか。解釈は人によって異なるはずなのに、「頭がいい(悪い)」という言葉だけがひとり歩きしています。
それでも疑問視されにくいのは、この言葉が社会における評価の仕組みそのものと結びついているからです。評価される側は、その仕組みを当然のものとして受け入れてしまいます。そして評価する側にとっても、「頭がいい(悪い)」という言葉は便利で都合がいいのです。だからこそ、この言葉は長く生き残ってきたのだと考えられます。

「頭がいい」の基準はどんどん曖昧になっている
かつて能力は、学力や偏差値、IQなどによって測られることが多くありました。それにも問題はありましたが、少なくともなにを頑張れば評価されるのかは比較的わかりやすかったともいえます。
ところが現在は、事情が大きく変わりました。コミュニケーション能力、主体性、リーダーシップ、協調性、周囲への気配り、センス、発信力……。そうしたさまざまな要素が評価対象になっています。
さらに仕事の現場では、「どのような態度で働いているか」まで評価されるようになりました。エンゲージメントという言葉に象徴されるように、仕事への熱意や前向きな姿勢が求められます。目立つことはなくとも静かに仕事へ向き合い着実に役割を果たす人もいるはずですが、現在は「頑張っているように見えること」が評価されやすい側面もあるのです。
たしかに、「頭がいい(悪い)」という言葉はとても便利です。なぜなら、曖昧だからこそ反論しにくいからです。コミュニケーション能力が高いのか、仕事ができるのか、人望があるのか、あるいは要領がいいのか。その中身をはっきりさせないまま評価できてしまいます。
そのために、この言葉は強い力を持ちます。しかも、それは生存の問題とも結びついています。評価は収入や昇進、働く機会の獲得などに直結します。つまり、資源の配分にかかわる話なので、誰もが気にならずにはいられないのです。
しかも、能力主義は、コンプレックス産業と結びつきやすいという側面もあります。自分はまだ足りないのではないか、もっと能力を高めなければならないのではないか。そうした不安がある限り、人は改善策を求め続けます。よって、「頭がいい人の習慣」「頭がいい人の話し方」といった商品やサービスが支持されるのも、不思議なことではありません。

「頭がいい(悪い)」から自由になるために
では、私たちはこの現状をどう考えればいいのでしょう? 大切なのは、能力や頭のよさを絶対的なものだと思い込まないことです。能力は自然界に存在する客観的な実体ではなく、社会が必要に応じてつくり出した概念です。そのことを知るだけでも、自分や他人を見る視点は大きく変わるでしょう。
仕事の現場を見ても、本来は分業によって成り立っています。複雑な課題が増え続ける現代において、すべてにおいて万能な人間など存在しません。むしろ求められているのは、異なる持ち味をどう組み合わせるかという発想です。方向性を示す人がいれば、それを具体的な行動に落とし込む人もいます。慎重にリスクを指摘する人もいれば、周囲を支える人もいます。どの役割も欠かせません。アクセルだけの車が危険であるように、ブレーキにも重要な役割があるのです。
そうであるにもかかわらず、「頭がいい(悪い)」という単一の尺度で人を見てしまうと、それぞれの持ち味が見えなくなります。そして、現在の評価基準にたまたま適応できた人だけが高く評価されることになるのです。その状態が続けば、いまの社会のなかで有利な立場にいる人はますます有利になり、不利な立場にいる人はそこから抜け出しにくくなるでしょう。「能力主義が格差の再生産につながる」といわれるのは、そのためです。
誰かを「頭が悪い」と切り捨てそうになったとき、自分自身を「能力がない」と責めそうになったときには、一度立ち止まって考えてみてください。それは本当に能力の問題なのか、それとも現在の評価基準との相性の問題なのか。「頭がいい(悪い)」という単純なものさしから距離を取る——その視点こそが、自分自身にも他者にも、もう少し自由なまなざしを向けるための第一歩になるのだと思います。

【勅使川原真衣さん ほかのインタビュー記事はこちら】
- 昇進しても不安。評価されても不安。私たちが努力をやめられない理由とは?(※近日公開)
- 仕事ができないのではない。「評価される場所」が違うだけだった(※近日公開)
清家茂樹(せいけ・しげき)
1975年生まれ、愛媛県出身。出版社勤務を経て2012年に独立。ジャンルを問わずさまざまな雑誌・書籍の編集に携わる。
