
📘 新人さんのためのマーケティング講座 Season9
Season8では「機能から情緒へのドメイン再定義」を20社の事例で深掘りしました。
Season9でも引き続き、現代のマーケティングの本質を事例で解き明かしていきます。
まだ過去のSeasonを読んでいない方は、そちらからどうぞ。
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最近、スマートフォンの売り場で心が動いたことはあるでしょうか。どの機種も似た黒い板で、カメラの画素数もチップの世代も、数字が上がったと言われても違いを体感できない。買い替えの理由は「電池が弱ってきたから」くらい。多くの人にとって、スマホは退屈な買い物になりました。
その最も成熟しきった市場に、最後発で入ってきた会社があります。Nothing(ナッシング)。スマホメーカーOnePlusの共同創業者だったカール・ペイ氏が、2020年にロンドンで立ち上げた会社です。*1
2022年の最初のスマホ「Phone (1)」は、内部のパーツが見える透明な筐体に、通知の種類や相手によって光り方を変える900個のLED「Glyph(グリフ)インターフェイス」を背負った異形のデザインでした。399ドルからというこの端末は複数のデザイン賞を受賞し、熱心なファンを獲得します。*1
そして2025年、同社の累計売上高は10億ドルを突破しました。*2 「今さらスマホで新規参入は無理」と誰もが考えた市場で、なぜこの会社は生き残り、成長しているのか。今回はこの問いを解剖します。
「退屈」こそ、最大の空白
最初の鍵は、参入の場所の選び方にあります。Nothingが見つけた空白は、機能の隙間ではありませんでした。全員の退屈です。
スペックが同質化した市場では、性能の言葉が消費者に届かなくなります。処理速度が何割速い、カメラが何画素。どれも事実ですが、体感できない差は、ないのと同じです。各社が同じ言葉で叫ぶほど、売り場は静かに退屈になっていきます。
Nothingが売ったのは、性能ではなく感情でした。透明な筐体もGlyphの光も、何かを速くする機能ではありません。「久しぶりにワクワクするガジェットに出会った」という気分を作る装置です。退屈した市場では、この気分こそが最も希少な商品になります。
売り方も、テック業界よりカルチャーの世界の文法です。限定モデルやドロップ的な売り出し、コミュニティの熱を起点にした話題作り。スペック表ではなく、スニーカーやファッションの世界で磨かれてきた手法をテックに持ち込みました。
2026年の布陣を見ると、この方向性は徹底しています。1月には、ラグジュアリーブランドのロエベでマーケティングを率いたチャーリー・スミス氏がチーフ・ブランド・オフィサー(CBO)に就任しました。スタジオジブリやOn Runningとのコラボレーション、TikTok戦略でロエベをZ世代に支持されるブランドへ育てた人物です。*4 来日した同氏は、「ファッショナブルなテックブランド」を目指すと語っています。*6
さらに同じ2026年の第1四半期には、ロンドンのキングス・クロスに、Heatherwick Studioが設計した新本社を開設。周辺を「Nothingキャンパス」にする構想も持っています。*2 テック企業というより、ファッションメゾンのブランドの作り方です。
ここから引き出せる原理はこうです。成熟市場では、機能の空白はほぼ埋まっている。でも、感情の空白は残っている。競合全員が同じ言葉で語り、顧客全員が退屈しているなら、そこが最後発にも残された参入口だということです。

ファンを株主にする。そして、業界の惰性から降りる
もうひとつの鍵は、ファンとの関係の設計です。
Nothingは創業まもない2021年から、株式投資型クラウドファンディングによる「コミュニティラウンド」を重ねてきました。初回の目標額は150万ドル。2度のラウンドで8,000人を超えるファンから計800万ドルの出資を受け、2025年12月には3度目の募集も始めています。*7 コミュニティ投資家には取締役会の持ち回りの席が用意され、ユーザーの声が経営に届く経路も作られています。*7
こうしてコミュニティ投資家の数は、1万1000人に達しました。*2
この設計が面白いのは、顧客との関係の段階を一段ずつ上げていくところです。製品を買った顧客が、少額の出資で株主になり、会社の成長を自分の損得として応援するようになる。株主になったファンは、新製品を自発的に発信し、周囲に薦める伝道師になります。大手が広告費で買っている認知の一部を、Nothingは関係の設計で生み出しているわけです。
そして2026年、この会社は象徴的な判断をします。今年は新しいフラッグシップスマホを出さない、という決断です。2025年発売の「Phone (3)」を旗艦として継続し、開発の力はミドルレンジの「Phone (4a)」シリーズに集中する。この方針のとおり、Phone (4a)は実際に発売されています。*2 *3
ペイ氏の言葉が、この会社の姿勢をよく表しています。「私たちは、ただ毎年フラグシップスマートフォンを出すことはしない。全てのアップグレードが『意味のあるもの』であるべきだと考えている。業界の慣習に従って、競合他社と同じことをする必要はない」。*3
背景には、冷静な事情もあります。AI需要によるメモリ価格の高騰です。スマホの部品ではメモリが最も高価になり、機種によっては原価の50%超を占める。Phone (4a)では、製品化を決めてから発売までにメモリコストが2倍になり、発売後さらに2倍になりました。ペイ氏は、業界全体の値上げが2027年にかけて続くとの見通しを示し、傘下の低価格ブランドCMFは2026年の新型スマホを見送っています。*5
逆風は本物です。ただ、ここで注目したいのは、毎年出すという同調圧力から降りても商売が成り立つ理由のほうです。スペックの新しさで選ばれている会社は、更新を止めた瞬間に忘れられます。デザインと関係で選ばれている会社は、止まっても顧客が待ってくれる。業界の惰性から降りる勇気は、ブランドで戦う会社にとっては、勇気というより合理なのです。
| 項目 | スマホ業界の常識 | Nothingの構造 |
|---|---|---|
| 語る言葉 | スペックの言葉で売る | 感情とカルチャーの言葉で売る |
| 製品サイクル | 毎年フラッグシップを更新する | 意味のあるときだけ出す |
| 顧客の位置づけ | 顧客は購入者 | ファンは株主であり伝道師 |
| 認知の作り方 | 広告費で認知を買う | コミュニティの熱が広告になる |

顧客が退屈していることは、何か
この事例が新人マーケターに残す問いは、「自分の市場で、顧客が退屈していることは何か」です。
競合の広告やサイトを並べてみてください。全社が同じ言葉(スペック、機能、価格)で語っていたら、それは激戦の証拠であると同時に、空白の証拠でもあります。誰も感情の言葉で語っていない市場では、感情の言葉そのものが差別化になるからです。顧客の「どうせどれも同じでしょ」というため息は、絶望ではなく、地図です。
もうひとつの問いは、「顧客を、購入者で終わらせていないか」です。Nothingはファンを文字通りの株主にしましたが、大切なのは株式そのものではなく、応援する理由の設計です。レビューを書いてもらう、開発の意思決定に参加してもらう、限定の共同企画に招く。関与、所有、参加の階段を一段でも上ってもらえれば、顧客は自分の言葉であなたの商品を語り始めます。
買ってもらって終わりの関係は、広告を止めた瞬間に途切れます。応援してもらう関係は、こちらが止まっても続く。退屈した市場で最後に効くのは、性能の差ではなく、この関係の差ではないでしょうか。

【本記事のまとめ】
1. 「退屈」こそ、最大の空白
スペックが同質化し、性能の言葉が届かなくなった市場で、Nothingは透明な筐体とGlyphで「ワクワクする」という感情を売った。ロエベ出身のCBO起用、Heatherwick Studio設計の新本社と、ブランドの作り方はテック企業よりファッションメゾンに近い。成熟市場では、機能の空白より感情の空白が残っている。
2. ファンを株主にする。そして、業界の惰性から降りる
2021年から株式投資型のコミュニティラウンドを重ね、コミュニティ投資家は1万1000人。支援者→顧客→株主→伝道師という関係の設計が、広告費の一部を構造的に代替している。2026年はフラッグシップを出さずPhone (4a)に集中。メモリ高騰という逆風の中でも、毎年出す同調圧力から降りられるのは、スペックではなく関係とデザインで選ばれているからである。
3. 顧客が退屈していることは、何か
競合全員が同じ言葉で語っている市場では、感情の言葉そのものが差別化になる。顧客を購入者で終わらせず、関与・所有・参加の階段を設計できれば、顧客は自分の言葉で商品を語り始める。応援してもらう関係は、こちらが止まっても続く。
よくある質問(FAQ)
「感情で売る」のは、性能で勝てない会社の言い訳ではないのですか?
前提が一つあります。感情で選ばれるためにも、必要十分な性能は満たしていなければなりません。Nothingの端末も、スペック表で最強ではないものの、日常で困らない水準は確保しています。そのうえでの話として、体感できない性能差を訴え続けるのと、体感できる感情の差を作るのとでは、どちらが顧客に届くかという土俵の選択の問題です。性能が「勝つための武器」から「参加するための資格」に変わった市場では、感情は言い訳ではなく、最も合理的な戦場になります。
ファンを株主にすると、経営に口を出されて動きにくくなりませんか?
設計次第です。Nothingの場合、一人ひとりの出資は少額で、議決権が経営を左右する規模にはなりません。一方で、コミュニティ投資家に取締役会の持ち回りの席を用意し、声を聞く経路は公式に作っています。つまり、支配はさせないが、関与はしてもらう構造です。ファンの関与はリスクにも資産にもなりますが、分かれ目は関与の窓口を設計しているかどうかです。窓口がなければ不満はSNSに漏れ、窓口があれば改善提案として届きます。
地味な商材やBtoBでも、「顧客の退屈」は見つかりますか?
見つかります。探し方は、顧客が「仕方ない」と諦めていることを集めることです。どうせ業界はどこも同じ、どうせ資料は分かりにくい、どうせ営業は売り込みばかり。この「どうせ」が溜まっている場所が、感情の空白です。BtoBでも、発注先を選ぶのは感情を持った人間です。全社が同じ提案書の形式、同じ専門用語で語っているなら、分かりやすさや誠実さといった当たり前の感情価値だけで、記憶に残る存在になれます。
*1: Forbes JAPAN|アンドロイドの革命児「Nothing」が9600万ドル調達で開発加速へ
*2: ケータイ Watch|Nothing、カール・ペイCEOが2026年の展望を語る Phone (4a)を大幅進化
*3: ITmedia Mobile|Nothing、2026年にフラグシップスマホは発表せず「Phone (4a)」に注力 東京への出店計画も
*4: ケータイ Watch|Nothing、ロエベのチャーリー・スミス氏をCBOに起用 グローバルブランドや店舗デザインなどを統括
*5: マイナビニュース|CMF by Nothing、2026年の新型スマホ見送り メモリ高騰、値上げ圧力さらに強まると予測
*6: ITmedia Mobile|2026年は“フラグシップ不在”のNothing それでも「Phone (4a)/(4a) Pro」で戦えると自信を見せる理由
*7: TechCrunch|Nothing looks to its community to raise $5M, wants to be ‘IPO-ready’ in 3 years
▼ 新人さんのためのマーケティング講座 Season9
現代のマーケティングの本質を事例で深掘りしていきます。
- 第1回:検索もレコメンドもない狭い売場のまま、カルディはなぜEC全盛の時代に増え続けるのか
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岡 健作(おか・けんさく)
株式会社新恵社 代表取締役。
1977年生まれ、福岡県出身。同志社大学文学部英文学科卒業。2010年に株式会社恵学社(現・株式会社イングリッシュカンパニー)を創業。2014年に学習メディア「STUDY HACKER」を立ち上げ、編集長を通算10年以上務める。STUDY HACKERは最大で月間500万PV、STUDY HACKERのInstagramは月間700万PV、フォロワー28万人(2026年10月7日時点)。2026年に新恵社を設立し、自社のメディアで読者と直接つながる「広報のD2C」を掲げる。著書に『勉強の戦略』(朝日新聞出版)など。
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