同時通訳者・柴原早苗が毎朝めくる「紙の新聞」——プロが25年続ける英語学習の土台

登壇者が口を開くより先に、同時通訳の日本語が耳に届いた——。

放送通訳者・柴原早苗さんが、まだ通訳者を志す前に横浜の国際会議で体験した出来事です。舞台に立っていたのはヴァージン・アトランティック航空の創業者リチャード・ブランソン氏。原稿もスライドも使わず、舞台を歩き回りながら自由に話していました。会場に流れる同時通訳のイヤホンを借りて聞いていた柴原さんは、ある異変に気づきます。

同時通訳は本来、話者の言葉を数秒遅れで追いかけて訳すもの。ところが、聞こえてくる日本語は——ブランソン氏の英語より、先に流れてきたのです。

イヤホンの向こうにいたのは、日本の同時通訳の草分けで、サイマル・インターナショナル創業者の小松達也氏。なぜ、話者よりも先に訳が出せるのか。仕組みを腑に落とすのは後になってからのことですが、いずれにせよ柴原さんはこのとき、生涯忘れえない衝撃を受けたといいます。

「衝撃を受けました」と柴原さんは振り返ります。「あ、やはり準備がすべてなんだ、と」

1998年6月、ロンドンのBBCワールド日本語放送で放送通訳デビューを果たして以来、柴原さんはBBC・CNNで25年以上、生放送の最前線で同時通訳を続けてきました。トランプ大統領就任式、6回の米大統領選、首脳会談、世界を揺るがしたテロや戦争のニュース——数えきれない歴史の瞬間を、リアルタイムで日本語に変換してきた人物です。その柴原さんが、英語学習者にまず伝えたいことは何か。今回はその思想の核心、「準備がすべて」の正体に迫ります。

構成・取材/STUDY HACKER編集部

【プロフィール】

柴原 早苗(しばはら さなえ)

放送通訳者・会議通訳者。獨協大学およびISSインスティテュート講師。子ども時代をオランダで2年、イギリスで4年間過ごし、社会人を経てロンドンの大学院で修士号を取得。1998年6月、ロンドンのBBCワールド日本語放送で放送通訳デビュー。帰国後はCNNjの放送通訳を中心に、国際会議の同時通訳、トランプ大統領就任式(2017年・2025年)、米大統領選候補者討論会、米朝首脳会談など、世界が注目する歴史的場面の生中継通訳を多数担当。獨協大学では通訳中級および上級の講座を担当し、後進の育成にも力を注いでいる。

ブランソン氏が話すより先に、訳が出てきた

あの日、舞台のブランソン氏は、紙も持たず、スライドも使わず、思いつくままに話を進めていました。原稿があれば事前に翻訳もできますが、それもない。話の流れも次の話題も、ブランソン氏本人しか知らない——はずでした。

「ブランソンさんって、紙もパワーポイントも何も使わずに、舞台の上をこう歩き回りながら喋っているんですけれども、ブランソンさんがおっしゃるよりも先に、同時通訳の言葉が来たんです」

小松氏はリチャード・ブランソン氏の著書を徹底的に読み込み、頭のなかに入れていた。だから、その場で初めて聞く話であっても、「この人ならこういう価値観だから、次はこういう論理展開になるだろう」という予測が立ち、訳が先に出せる。当時まだ通訳者ではなかった柴原さんにとって、この出来事は通訳観を決定づけるものとなりました。

「やはり、準備がすべてだなって」

「半日の会議」のために「5日分」の準備をする

その思想は、いまも柴原さんの仕事の流儀となって生きています。実際に柴原さんが現役の放送通訳者・会議通訳者として実践している準備は、想像をはるかに超える密度です。

「例えば半日の国際会議をお願いしますと言われますと、もうその半日かける10倍の準備時間をかけて、登壇される方の書籍を読む、論文を読む、YouTubeで動画を探す」

半日の通訳に対して、5日分の準備。CNNの放送通訳でトランプ大統領のニュースを担当する際には、トランプ氏の自伝、関連書籍、家族構成まで調べ尽くして本番に臨みます。2025年6月、米軍によるイラン核施設攻撃が起きた時期には、『地球の歩き方 イラン編』まで読んだといいます。

なぜ、ここまでするのか。理由はシンプルです。

徹夜で準備をする女性のイメージ

「知らない単語は聞き取れない、聞き取れない単語は訳せない」

通訳の世界には、こんな鉄則があります。

「知らない単語は聞き取れない、聞き取れない単語は訳せない、と言われているんです」

柴原さんはこの原則を、自身の体験で説明してくれました。CNNのニュースで、韓国のアイドルグループBTSが活動再開したという話題が大きく取り上げられた日のこと。

「私、BTSってほとんど詳しくないんです。男性メンバーの韓国のアイドルグループで、皆が徴兵で1年とか2年とかいなかったっていうところで止まっているんですよ、知識が。そのニュースが出てきたときに、メンバーの名前をニュースキャスターが『誰々はこうこうこうでね』とか『前にこういう歌も歌ってたよね』っていうのを言ってくるんですけど、完全に同時通訳で置いていかれたんです」

世界最速200ワード/分とも言われるCNNの英語に、25年以上向き合ってきたプロが、です。英語自体は聞こえている。文法も理解できる。それでも、背景知識がなければ訳せない。これがプロの現場で起きる現実です。

英語力=語彙力+背景知識

このことは、英語学習者にとっても他人事ではありません。むしろ、英語学習の本質を突いています。

TOEICのスコアが伸び悩む人、洋画のセリフが半分しか聞き取れない人、英語の会議についていけないと感じる人。その原因の多くは、英語力そのものというより、扱われている話題の背景知識が不足していることにあります。

柴原さんは獨協大学やISSインスティテュートの受講生たちに、こう伝え続けています。

「とにかく知識をたくさん持っていることが、英語学習であれ通訳の勉強であれ、大前提になる」

では、その「知識」は、どうやって増やしていけばいいのでしょうか。柴原さんがすすめるのは、驚くほどアナログな方法です。

紙の新聞を、毎日めくる

柴原さんはいまも紙の新聞を購読しています。日本語の『読売新聞』と、英字版の『The Japan News』(読売新聞社の英字紙)。CNNのスタジオに行けば『日経新聞』や『朝日新聞』にも目を通します。

「もう紙の新聞を取る方はすごく少ないと思うんですけれども」と前置きしながら、柴原さんは紙の新聞の優位性を語ります。

「デジタルとの最大の違いって、こう広げたときの大きさがものすごく大きくなりますよね、紙の新聞って。特にテーブルの上でバッと広げると、ものすごい情報が一気に入ってくると思うんです。一字一句読まなくても、ちょっとバッと見たときに、『あ、なんかアメリカ、イラン』とか、『なんかこの話が出てた』とかっていうのが、潜在的に入る」

「自分が読む記事」ではなく「メディアそのもの」を読む

デジタルニュースの最大の特徴は、読者が読みたい記事を選んで読みにいく点にあります。検索やSNSのリンクから、個別の記事へ直接アクセスする。便利な一方で、「自分が興味のない情報」には永遠に触れないまま終わってしまう。

紙の新聞は逆です。新聞という「メディア全体」を開く形式なので、興味のない記事のタイトルも、書籍広告も、文春の見出しも、知らないうちに視野に入ってきます。主導権が読者側ではなく、新聞社の編集判断側に少し寄っているのです。

そして、紙ならではの情報があります。

「イラン攻撃があったときなんかも、紙の新聞だともうものすごく大きな太い見出しでしたけれども、Yahoo!のヘッドラインになると、みんな同じフォントで、みんな13文字のタイトルになってしまうんです」

見出しの大きさ、紙面の面積、配置——これらはすべて新聞社の編集判断の結果です。「いま、何が重要なのか」が、文字を読む前に視覚的に伝わってくる。デジタルの均質なレイアウトでは失われがちな情報です。

毎日めくり続けるうちに、「真ん中らへんの左上のところに、あの記事があったな」という空間的な記憶も残ります。紙特有の手触りや、めくる行為自体が、記憶の定着を助けてくれる。

「紙新聞を毎日めくるっていうのは、実は侮れないなと思っています。私よりももっと上の、それこそ通訳の黎明期を作ってこられた大先輩方の通訳者って、紙新聞世代ですから、知識量がものすごくおありなんです」

日本の通訳業界を切り拓いた先人たちの圧倒的な知識量。その源泉のひとつが、毎朝の新聞だった——柴原さんはそう見ています。

新聞を広げる人物の写真

「英字新聞の社説」を音読する——柴原流アナログ学習

柴原さんが紙の新聞を「読む」だけに留めないのも特徴的です。『The Japan News』を使った独自のトレーニング法を、柴原さんは毎日続けています。

『The Japan News』は、『読売新聞』と連動しており、数日前に読売に掲載された記事の英訳版が掲載されます。なかでも柴原さんが愛用しているのが、社説の日英対訳です。

「前日の読売新聞の社説が翌日に翻訳されて、隣り合わせになっているんです」

柴原さんはこれを、さまざまな角度から活用しています。

4つの活用法

まず、英語版を音読する。ストップウォッチで計測し、何分で読めるかを記録する。

わからない単語が出てきたら、日本語版で確認する。辞書を引かずに対訳でつかむ。

次に、英訳に挑戦する。英語版を隠して日本語版だけを見て、頭のなかで英訳する。その後、英語版と見比べて、自分の訳と「プロの英訳」の差を確認する。

最後に、日本語版を音読する。これも訓練の一部です。

柴原さんはこの取り組みを、毎日続けています。

「もう毎日、これは歯磨きみたいな感じでやっています」

「無駄なことは、一切ない」

取材した日、柴原さんは駅でたまたま手にしたという六本木ヒルズのイベントリーフレットを見せてくれました。そこには「ポーランドフェスティバル」の案内が載っていて、ポーランドのグルメの固有名詞が並んでいたそうです。

「こういうのも、1回でも目にした経験があると、いざニュースや話題で出てきたときに、『そういえば、あの日、駅でリーフレットを見たな』ってひもづけられて思い出すんです」

同時通訳の世界には、こんな鉄則があると柴原さんは言います。

「無駄なことは、一切ない」

新聞、雑誌、書籍、ペットボトルのラベル、駅で配られるリーフレット——あらゆる情報が、いつかどこかで「訳語」となって自分を救う。だから柴原さんは、ペットボトルのラベルに書かれた「ほうじ茶」の製法も、緑茶との違いも、その場でスマホで調べる習慣を持っています。

「調べて知識として持っていく、ストックしていくと、すごく日々が楽しくなる感じです」

「準備」とは、本番の前夜から始まるものではない

取材中、柴原さんは終始穏やかな口調で、よく笑い、こちらの問いに丁寧に言葉を返してくれました。小柄で上品な物腰の女性です。しかし話を聞き進めるほどに、その「当たり前」の基準値の高さに圧倒されていきました。半日の会議に5日分の準備をかける。毎日歯磨きをするように英字新聞を音読する。ペットボトルのラベルにある「ほうじ茶」の製法までその場で調べる——本人にとってこれらはすべて、ごく当たり前の日課です。世界の一線で四半世紀活躍し続けてきた人のすごみは、この「あたりまえの位置」が常人より何段も上にあること、そしてそれを淡々と続けていることにこそあるのかもしれません。

そんな柴原さんの「準備がすべて」という言葉に、改めて立ち戻ってみましょう。

通訳の本番前に登壇者の著書を読み込み、専門用語をエクセルに整理する——もちろん、それも準備の一部です。2025年1月のトランプ大統領就任式の通訳に臨んだ際、柴原さんが事前に作成した英日対訳の単語リストは100語に及びました。しかし、その急ごしらえの準備が機能するのは、その下に「日常的に積み上げてきた知識のストック」があるからなのです。知識は、いつ使うかわからないからこそ、日常的に蓄え続けるしかない——半日の会議に5日分の準備をかける流儀の根っこには、その認識があります。

柴原さんはこう締めくくります。

「興味を持って、いろんな知識——雑学も含めてですけれども——に関心を抱きながら日々を過ごしていかれると、それが土台となってくれる。そこの上にさらに英語の勉強というものが、ついてきてくれると思うんです」

本番のパフォーマンスは、本番の前夜には作れない。プレゼンの本番、商談の本番、面接の本番——私たちが「本番」と呼ぶ瞬間に発揮されるものは、その日の朝に決まるのではなく、それ以前にどれだけの蓄積を重ねてきたかで決まる。仕事のできる人とそうでない人の差は、本番の瞬間に発揮する瞬発力よりも、本番でない日々をどう過ごしているかに表れるはずです。

そしてもうひとつ。柴原さんが見せてくれたのは、その積み重ねを苦行ではなく、面白がって続けるしなやかさでした。「調べて知識として持っていくと、すごく日々が楽しくなる感じです」——この言葉に、世界の一線で四半世紀走り続けてきた人の強さが宿っています。

「準備がすべて」とは、特別な日の話ではなく、特別な日でない日々の話。そして、その日々を「楽しい」と感じられるかどうかが、結局のところ、本番でのパフォーマンスを分けるのです。

***

次回は、柴原さんが「事前準備で最も大切なものは何ですか」という問いに対して即座に答えた、意外なひとことから始まります。同時通訳者の本番を支えるのは、語学力でも知識でもなく——。

笑顔でインタビューに応じる柴原氏

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  • 「本番に勝つのは、体力です」——BBC・CNNで25年、同時通訳者・柴原早苗の食事ルーティン(※近日公開)
  • 「Presidentが出てこないときは、Leader」——米大統領選を訳した同時通訳者・柴原早苗の即決思考(※近日公開)
【ライタープロフィール】
STUDY HACKER 編集部

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