
「事前準備で最も大切なものはなんですか」
BBC・CNNで25年以上、生放送の最前線で同時通訳を続けてきた柴原早苗さんに、そう尋ねたときのことです。前回(第1回)では、柴原さんが「準備がすべて」という哲学のもとに、紙の新聞を毎日めくり、英字新聞の社説を歯磨きのように音読し、駅で拾ったリーフレットの固有名詞まで頭に入れていく——という、知識のストックの話を伺いました。
当然、続く答えも「知識量」や「下調べ」「予測の精度」といった、知的な準備の話が返ってくるものと思っていました。ところが、柴原さんから即座に返ってきたのは、まったく別の一語でした。
「体力です」
同時通訳者は、最も知的な職業のひとつのはずです。語学力、知識量、瞬発的な判断力——脳の能力をフル稼働させる仕事です。その第一線で四半世紀走り続けてきたプロが、「最も大切なもの」として挙げたのが、頭ではなく身体だった。今回はその意外な答えの裏側、同時通訳者が「アスリート」として自分を整えている世界に迫ります。
構成・取材・撮影/STUDY HACKER編集部
【プロフィール】
柴原 早苗(しばはら さなえ)
放送通訳者・会議通訳者。獨協大学およびISSインスティテュート講師。子ども時代をオランダで2年、イギリスで4年間過ごし、社会人を経てロンドンの大学院で修士号を取得。1998年6月、ロンドンのBBCワールド日本語放送で放送通訳デビュー。帰国後はCNNjの放送通訳を中心に、国際会議の同時通訳、トランプ大統領就任式(2017年・2025年)、米大統領選候補者討論会、米朝首脳会談など、世界が注目する歴史的場面の生中継通訳を多数担当。獨協大学では通訳中級および上級の講座を担当し、後進の育成にも力を注いでいる。
同時通訳者は、アスリートである
「体力です」と即答されたとき、思わず聞き返してしまいました。「サッカー選手と同じで」と、柴原さんは続けます。
「当日に向けてコンディションを逆算して整える。だから個人的には、栄養の摂り方、食事の取り方が結構好きで、興味を持ってやっています」
同時通訳という仕事の負荷を、想像してみてください。話者の英語を耳で聞きながら、同時に頭で意味を理解し、それを日本語に変換し、口から出力する——しかも数秒の遅れもなく、放送事故の許されない生放送で。世界最速とも言われる200ワード/分のCNNの英語に対して、これを何時間も続ける。
「本当に体力を使うので。しかもブドウ糖がどんどん奪われていく世界なので、ラムネを持ち歩いたりとかしています」
ラムネを持ち歩くプロの語学者。このひとことだけで、同時通訳という仕事の身体的な重みが見えてきます。
三笘選手に重なる、本番の景色
柴原さんが取材中、繰り返し名前を挙げたのがサッカー選手でした。とりわけ三笘薫選手のニュースには感情移入してしまうと言います。
「サッカーの場合だと45分かける2ですよね。心理学の本で読んだのが、人間の大人のマックスの集中力って90分らしいんです。子どものマックスの集中力は45分」
サッカーの試合は、前後半45分ずつ、合計90分。45分を全力で集中し、ハーフタイムで一度切り、また45分を全力で集中する。これは大人の集中力の限界そのものの構造です。
「サッカー選手って45分、休憩、45分で、45分を過ぎたアディショナルタイムにミスをしてゴールを入れられてしまうっていうのは、あれもやはり心理学的に納得がいくんじゃないかなと思います。集中力が切れてしまったがゆえに」
これは、柴原さん自身の仕事の構造でもあります。国際会議の通訳ブースには通常2〜3名がチームを組み、10分や20分単位で交代しながら集中力をつなぎます。ひとりひとりが、その持ち時間にすべてを賭ける。ハーフタイムやアディショナルタイムにあたる「集中力が切れかける瞬間」を、いかに乗り切るか。サッカーの試合と、同時通訳の現場は、人間の集中力の限界と向き合うという一点で、同じ構造を持っているのです。
だからこそ、柴原さんは三笘選手のニュースに感情移入する。準備万端で挑んでも、相手がどう出るかわからない試合に身を投じるという意味で、同時通訳者とサッカー選手は同じ景色を見ている、と。

朝3時半起き、4時の食事——CNN朝シフトのルーティン
取材当日、実は柴原さんはCNNの朝シフトを終えてから来てくれていました。朝7時から11時までの放送通訳。スタジオ入りは6時半。そこから逆算して、柴原さんの一日は午前3時半に始まります。
4時頃に食べる朝食の内容と順番は、すべて決まっています。
「まず野菜ファースト。ベジファーストって最近言われていますけど、野菜を食べて、その後にタンパク質。今朝のメニューで言うと、野菜スープを食べてからヨーグルト。ヨーグルトってタンパク質なので、それを4時台に食べて、電車に乗って」
スタジオに着くのが6時半。声出しが始まるのは7時過ぎ。その間に空腹を感じたら、追加の食事をとります。
「6時半の時点で『あ、やっぱりまだお腹空いてる』っていう時は、さらにゆで卵とかチーズを食べて、バナナを食べてっていう感じで。あくまでも炭水化物は最後、エナジーミールの最後にして、ガソリンを満タンにしてから同時通訳っていうことです」
野菜→タンパク質→炭水化物。食べる順番が決まっているのです。
「最近導入したばかり」の進化
興味深いのは、この食事の順番を柴原さんが「最近導入したばかり」だと話したことです。それまでは、お腹が空いたときにパンやチョコレート、ワッフルなどの炭水化物を食べていた、と。
「それだと一時的には満たされてガソリンは溜まるんですけど、すぐにまたお腹が空くんです。これは血糖値が急激に上がって下がるからって、どこかの栄養学のサイトで読んで。まず野菜とかタンパク質で土台をつくっておいてから炭水化物を入れるっていうふうにするようになりました」
四半世紀のキャリアを持つプロが、いまも自分のパフォーマンスを上げるために、栄養学を学び、食事の組み立てを更新している。「もう完成している」と思って止まらないことが、第一線で走り続ける人の共通点なのかもしれません。
会議通訳の日は、おにぎり
放送通訳ではなく、午後2時から4時の会議通訳が入っている日も、柴原さんの食事戦略は緻密です。
「普段通りのお昼を食べるんですけど、会場入りして『なんかちょっとお腹空くかもしれないな』っていうのも、なんとなくお腹の声を聞いて。そのとき用におにぎりとかをコンビニで事前に買って行ったりして」
ここでも、選ぶ食材には理由があります。
「もともとパンとかスコーンとか、ああいう小麦粉系が好きだったんですけど、それって血糖値が急落するっていうのを読んだので、おにぎりの方がいいっていうのを知って——おにぎりですね」
パンが好き、けれど血糖値が急落することを知ったので、本番前にはおにぎりを選ぶ。「好み」と「パフォーマンス」を切り分けて、後者を優先する。アスリートが試合前にラーメンを我慢するのと、構造としては同じ判断です。
ラムネとブドウ糖、即決の理由
そして、本番中の脳のガス欠に備えてのラムネ。子どもの頃に駄菓子屋で食べたあのラムネが、なぜプロの通訳者のかばんに入っているのか。
ラムネの主成分はブドウ糖です。脳のエネルギー源として最も即効性が高く、消化を経ずに血中に入ります。同時通訳のような高負荷の知的作業中、脳がブドウ糖を大量に消費していくとき、ラムネはコンマ数秒で補給できる「燃料」になる。
柴原さんは、栄養学の研究者ではありません。けれど、ご自身の身体で起きていることを観察し、必要な情報を集め、最適な選択肢を日常に組み込んでいる。知的職業に従事しながら、自分の身体を一流のスポーツ選手のように扱っているのです。

知的職業こそ、体力で決まる
「でも、おそらくビジネスパーソンの方も同じだと思うんです」と柴原さんは言います。
「朝9時から夜遅くまでお仕事されていて、しかも満員の電車に乗っていらっしゃるわけですので、体力って実はとても大事なんじゃないかなって思うんです」
柴原さんが取材中、駅前のコンビニで見かけたあるビジネスパーソンの姿を、心配そうに振り返ってくれました。お昼にでしょう、大きなとんかつ弁当を買って帰っていった男性。
「たしかにエネルギー源にはなるけれど、血糖値が上がって、すごく急降下するだろうなって、栄養学的に見ると心配になってしまったんです」
これが、柴原さんの目線です。本人にとっては「いつも通り」の景色が、栄養学を学んできた目には、明日のパフォーマンスを左右する選択として見えている。
「あしたのジョー」のように、リングを降りる
柴原さんに、米大統領選の討論会の同時通訳をした日の話を聞きました。トランプ氏とハリス氏の一騎打ち、共和党対民主党、世界が固唾を呑んで見守る生中継。日本の民放各局がほぼ同時に放送したというあの夜です。
「5分交代でやりましたので、通訳者のあいだで。なので、もう5分やっても本当にお互い、なんだろう、あしたのジョーのボクサーがリングのコーナーでぐったり、みたいな、ああいうメンタルになりながら、2人で切り抜けたっていう感じでした」
5分で交代。5分で、ジョーがリングを降りる時のように消耗する。これが、世界の歴史的瞬間を日本に届けるという仕事の実態です。知的職業の最高峰は、肉体的にもアスリートのそれと変わらないのです。
本番で力を出せる人は、本番でない日々を整えている
前回、柴原さんの「準備がすべて」という哲学を紹介しました。それは、紙の新聞をめくり、英字社説を音読し、固有名詞をストックしていく、知識の準備の話でした。
今回見えてきたのは、そのもうひとつの準備です。何時に起き、何を、どの順番で食べ、何を持ち歩き、本番の何時間前にガソリンを満タンにするか——身体の準備。
三笘選手が試合の前日に何を食べ、何時に寝るかを管理するように。柴原さんは大統領選の討論会の生中継に向けて、朝3時半に起き、野菜スープから一日を始める。「本番」のパフォーマンスを支えるのは、その日の知識量と気合いではなく、本番でない日々をどう整えているかです。
これは、英語学習者にも、ビジネスパーソンにも、まったく同じ原理が働きます。大事な商談の朝、TOEICテストの当日、プレゼンの本番——いざという瞬間に頭を働かせるのは、結局のところ、その人の身体です。睡眠、食事、運動、栄養。知的なパフォーマンスを上げたければ、まず身体を整える。柴原さんが教えてくれるのは、この当たり前で、なぜか忘れられがちな真実です。
「準備がすべて」と言った人が、その「準備」の中身として、知識と並べて——いえ、知識より先に——「体力」を挙げた。この順番こそが、世界の一線で四半世紀走り続けてきた人の、いちばん大切な秘密なのかもしれません。
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次回は、いよいよ通訳の現場で起きていることの内側に踏み込みます。同時通訳者は、知らない単語が出てきた瞬間、どう切り抜けるのか。「習近平国家主席」の英訳が出てこないとき、プロはなんと訳すのか——。

【柴原早苗さん ほかのインタビュー記事はこちら】
- 同時通訳者・柴原早苗が毎朝めくる「紙の新聞」——プロが25年続ける英語学習の土台
- 「Presidentが出てこないときは、Leader」——米大統領選を訳した同時通訳者・柴原早苗の即決思考(※近日公開)
STUDY HACKER 編集部
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