「Presidentが出てこないときは、Leader」——米大統領選を訳した同時通訳者・柴原早苗の即決思考

「中国の習近平……『国家主席』って、英語でなんだっけ?」

英語で話している最中、知っているはずの単語が出てこない。頭のなかが真っ白になる。あなたなら、どうしますか?

これは英語学習者にとって、最も怖い瞬間のひとつでしょう。仕事の英語会議で、商談の途中で、TOEICのスピーキングテストで——「あの単語」が喉まで出かかっているのに、出てこない。気まずい沈黙が流れ、自信が崩れていく。

では、これがプロの同時通訳者の身に起きたら、どうなるのか。BBC・CNNで25年以上、トランプ大統領就任式や6回の米大統領選を訳してきた柴原早苗さんに聞きました。返ってきた答えには、私たちが英語学習で見落としがちな視点が含まれていました。

前回までは、柴原さんの「準備がすべて」という哲学(第1回)と、それを支える「体力」(第2回)の話を伺いました。シリーズ最終回となる今回は、いよいよ通訳の現場で実際に何が起きているか——プロが本番中に駆使する即決思考、そしてそれを支える日々の訓練に迫ります。

構成・取材・撮影/STUDY HACKER編集部

【プロフィール】

柴原 早苗(しばはら さなえ)

放送通訳者・会議通訳者。獨協大学およびISSインスティテュート講師。子ども時代をオランダで2年、イギリスで4年間過ごし、社会人を経てロンドンの大学院で修士号を取得。1998年6月、ロンドンのBBCワールド日本語放送で放送通訳デビュー。帰国後はCNNjの放送通訳を中心に、国際会議の同時通訳、トランプ大統領就任式(2017年・2025年)、米大統領選候補者討論会、米朝首脳会談など、世界が注目する歴史的場面の生中継通訳を多数担当。獨協大学では通訳中級および上級の講座を担当し、後進の育成にも力を注いでいる。

「Chinese leader」で、切り抜ける

「習近平国家主席」を英語で訳す必要がある。正解は「Chinese President」——でも、Presidentが出てこない。国際会議の現場で、ほんの一瞬でも沈黙すればクライアントや参加者に迷惑がかかる。さて、どうするか。

「正解はChinese Presidentなんですけど、Presidentをど忘れしたときはChinese Leaderとか、そんなふうにざっくりとした訳で切り抜けるっていう方法があります」

Chinese Leader。中国の指導者。直訳すればたしかに「国家主席」とは違うけれど、意味は通る。正確な訳語を取りにいかず、ひとつ上のカテゴリーに逃げる。これが、プロの同時通訳者が本番中に使う、即決の技です。

「ゆっくりと一次元上から鳥瞰図的に見て訳すっていうことなんです」

鳥瞰図——空から地図を見下ろすように、ひとつ上の視点から物事を見る。「国家主席」という個別の名詞ではなく、「中国のトップにいる人」という意味のレイヤーに上がる。そうすれば、Presidentが出てこなくても、Leaderで切り抜けられる。

とはいえ、この「鳥瞰図」の技は、本番中の数秒で繰り出せるものです。なぜ、プロはコンマ数秒で発想を切り替えられるのか。種明かしをすれば、答えは「本番中にはない」のです。本番中にできることは、本番でない日々に仕込まれている——これが、柴原さんが取材を通して何度も示してくれた、プロの即決思考の正体でした。

悩む時間が、存在しない

まず確認しておきたいのが、同時通訳という仕事の構造です。

「翻訳だと辞書を引いて、『この訳かな、あの訳かな』って考える時間があるんですけど、同時通訳は即決しなければいけない」

翻訳と同時通訳は、しばしば一緒に語られますが、必要とされる脳の使い方は別物です。翻訳は時間をかけて最適な訳語を探す仕事。同時通訳はコンマ数秒で「とりあえずベストな訳」を出し続ける仕事。完璧な訳語を出すことより、止まらないことのほうが優先されるのです。

つまり、同時通訳者は本番中、悩むことができません。悩んだ瞬間に沈黙が生まれ、ニュースの現場であれば放送事故になる。ということは、本番中に発揮される即決思考は、その瞬間にひらめいた天才性ではなく、あらかじめ脳に仕込まれている回路の発火に近いのです。

だから問いは、こう変わります。その回路は、どうやって作られているのか?

即決を支える3つの「日々の仕込み」

柴原さんの話を聞き進めると、本番中の即決を支えている「日々の仕込み」が、いくつかの層に分かれていることが見えてきます。

仕込み1:母語を自動化する

通訳訓練といえば、英語のシャドーイング——英語を聞いて英語を後追いし、発音、リズム、語彙の自動化を狙う、リスニング上達の王道の方法——を思い浮かべる方が多いでしょう。柴原さんも、もちろん日々のトレーニングとしてこれを実践しています。けれど話のなかで、もうひとつ意外な訓練が出てきました。

「日本語のシャドーイングをやるんです。NHKのニュースとかの、非常に洗練された日本語、てにをはもきちんとしている日本語のシャドーイングをすることで、日本語を自動的に出せるようにする」

英語ではなく、日本語のシャドーイング。これは英語シャドーイングのハードルが高い人にとっての準備段階としてだけでなく、プロの同時通訳者にとっても重要な訓練です。

同時通訳が要求する負荷の構造を、思い出してみてください。話者の英語を聞きながら、頭で意味を理解し、それを日本語に変換し、口から出力する。この一連のマルチタスクのうち、「日本語で口から出す」という最後のピースが自動化されていなければ、全体が破綻する。母語の出力を「考えずに出せる」状態にする——これが、即決思考の土台となる第一の仕込みです。

仕込み2:瞬発力と保持力を、別々に鍛える

もうひとつの仕込みは、通訳訓練の段階構造に関わるものです。柴原さんはこう言います。

「最初は逐次通訳なんです。一定の長さの英語を聞いて、それをメモしたり、頭のなかに保持したものをきちんとした日本語に直すっていう訓練を最初にやります」

逐次通訳——話者が1分や2分話したあと、通訳者がそれをまとめて訳す方式です。同時通訳より「遅い」ように見えますが、実は別の筋肉を使います。聞いた内容を頭のなかに保持する力——リテンションです。

「同時通訳ばかりやっていて、同時通訳に慣れてしまうと瞬発力が得意になってしまうので、逆に記憶して保持するっていう筋肉、また別の筋肉を脳のなかで使うこと、それがだんだん不得意になってきてしまうんです」

瞬発力(同時通訳)と保持力(逐次通訳)は、別の筋肉。プロでも、両方を意識的に鍛え続けないと、片方が衰える。即決の質を保つためには、正反対の能力をバランスよく持つ必要があるのです。

これは英語学習者にも示唆的です。スピーキングの瞬発力を上げる訓練と、リーディングやリスニングで内容を頭に保持する訓練は、別物。両方をやらないと、本番で力を出せる人にはならない。

仕込み3:文脈で予測する

そして、もうひとつの仕込みが「予測」です。柴原さんは、日英通訳の難しさを語るなかで、こんな例を出してくれました。

「日本語って動詞が最後に来るので。例えば電車の案内で『この電車は何駅と何駅と何駅は止まりません』って、最後に否定形が来たりします」

「止まりません」が文末に来るまで、聞き手は「止まる」のか「止まらない」のかわからない。これが日英通訳の最大の難所のひとつです。同時通訳では、文末を待っていたら間に合わない。では、どうするか。

「『快速電車の案内だな』ってわかったときに、『どこどこに止まります』とは言わないだろうな、とか、いう推測をするということです」

その鉄道会社のアナウンスが「止まる駅を言う」スタイルなのか、「止まらない駅を言う」スタイルなのかを、事前に知っていれば予測ができる。これは、第1回で語られた「準備がすべて」(第1回)が、現場の即決思考にどう接続するかを、端的に示しています。知識のストックは、本番中の予測のために存在するのです。

パソコンで作業をする女性

即決を、日常に染み込ませる

こうした即決思考は、訓練の場だけのものではありません。柴原さんの日常にも染み込んでいます。

「レストランとかに行ってメニューを選ぶときは、割と直感で選びます。パッと見たときに一番に目に入ってきたものが、おそらく自分がいま、栄養的に欲しているものなんだろうなと思って」

大戸屋に行けば、視界に「黒酢酢豚」が飛び込んできた瞬間に決まる。本番中に訳語に悩んでいる時間がない仕事を四半世紀続けてきた人は、悩むことそのものを生活から減らしていくのかもしれません。メニューで悩まない。服で悩まない。何を食べるかで悩まない。日常から「悩む癖」を抜くことが、本番での即決力を保つもうひとつの仕込みになっている、と読むこともできます。

逆に言えば、これは英語学習者にとってもヒントです。本番で止まらない英語を話したいなら、日常から「最適解を探して止まる癖」を減らしておくこと。完璧を待たずに前に進む、という思考の癖は、本番だけで急に身につくものではありません。

完璧な英語より、止まらない英語

ここまでの話を、英語学習者・ビジネスパーソンの視点に翻訳してみましょう。

英語の会議でも、海外との商談でも、英語のプレゼンでも——多くの日本人が最も恐れるのは、「単語が出てこなくて止まる瞬間」ではないでしょうか。完璧な英語を話さなければと思うほど、その瞬間が来たときのダメージは大きくなる。

けれど、プロの同時通訳者の仕事を見ると、まったく別の発想が見えてきます。完璧な訳語を取りに行かない。止まらないことのほうを優先する。Presidentが出てこなくても、Leaderで切り抜ける。それを支えているのは、本番の天才性ではなく、日々のシャドーイング、逐次通訳のリテンション訓練、そして圧倒的な背景知識の蓄積です。

これは、英語コミュニケーションの根本的な発想転換です。言葉は、完璧であることより、伝わることが大事。そして、伝わるために必要なのは、本番の頑張りではなく、本番でない日々の仕込みなのです。

本番は、本番でない日々に作られる

3回にわたって、同時通訳者・柴原早苗さんの仕事観に迫ってきました。振り返ると、すべての話に通底していたメッセージはこれです。本番のパフォーマンスは、本番の瞬間に作られるのではない。本番でない日々の積み重ねが、本番に染み出してくる。だからこそ、柴原さんは知識を蓄え、身体を整え、即決の回路を磨く。一見バラバラに見える日々の習慣は、すべて「いつか来る本番」に向けて静かに積み上げられた、ひとつの長い助走なのです。

第1回で語ったのは、知識の準備。紙の新聞を毎日めくり、英字社説を歯磨きのように音読し、固有名詞をストックしていく。日々の蓄積が、本番の予測を支える。

第2回で語ったのは、身体の準備。朝3時半起き、野菜→タンパク質→炭水化物の食事順、本番中のラムネ。アスリートが自分の身体を整えるように、知的職業のプロも自分の身体を整える。

そして今回語ったのは、本番の即決。準備された知識と身体を持ち寄って、コンマ数秒で意味を運ぶ。鳥瞰図でカテゴリーを上げる技は、その瞬間のひらめきではなく、日々のシャドーイング、リテンション、予測の訓練の上にしか宿らない。

言葉を変えれば、こうなります。本番で力を発揮できる人は、本番の瞬間になにかをしているのではなく、本番でない日々にすべてを仕込んでいる。知識を仕込み、身体を仕込み、即決のための回路を仕込む。柴原さんが取材中に何度も「興味を持って、おもしろがって、楽しんで」と繰り返していたのは、その「仕込み」を継続するための、一番大切な姿勢の話だったのかもしれません。

同時通訳者の世界を覗かせていただいた3回でした。けれど、見えてきたのは特殊な職業の話ではなく、「本番を持つ人間が、どう日々を生きるか」という、もっと普遍的な物語でした。読者のみなさんの「本番」に、この3回の話が何かしらのヒントを置いていけたなら、嬉しい限りです。

【柴原早苗さんインタビュー・シリーズ】

第1回:「知らない単語は、聞き取れない」——BBC・CNNで25年、同時通訳者・柴原早苗の英語学習法

第2回:「本番に勝つのは、体力です」——BBC・CNNで25年、同時通訳者・柴原早苗の食事ルーティン

第3回(本記事):「Presidentが出てこないときは、Leader」——米大統領選を訳した同時通訳者・柴原早苗の即決思考

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STUDY HACKER 編集部

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