
大事なプレゼンの場。あれも伝えたい、これも伝えたい。準備した資料は気がつけば30枚を超え、伝えたい論点も10個になる。
本番が始まる。最初は順調だったはずが、途中で時間が押し、論点が混線し、聞き手の表情が曇りはじめる。
——あれもこれもと詰め込んだ結果、本番はうまくいかなくなる。
やってしまいがちなそんな失敗は、どうすれば避けられるのか。準備不足の心配からは、どうすれば逃れられるのか。
答えは、コンマ数秒の本番が連続する仕事の世界から見えてきます。
BBC・CNNで25年以上、生放送の同時通訳を続けてきた柴原早苗さん。世界の最前線で本番を踏み続けてきた一線級のビジネスパーソンであり、獨協大学やISSインスティテュートで多くの英語学習者を育ててきた教育者でもあります。
連載第2回は、本番で力を出す人が共通して持つ「捨てる勇気」に迫ります。
構成・取材・写真/STUDY HACKER編集部
【プロフィール】
柴原 早苗(しばはら さなえ)
放送通訳者・会議通訳者。獨協大学およびISSインスティテュート講師。子ども時代をオランダで2年、イギリスで4年間過ごし、社会人を経てロンドンの大学院で修士号を取得。1998年6月、ロンドンのBBCワールド日本語放送で放送通訳デビュー。帰国後はCNNjの放送通訳を中心に、国際会議の同時通訳、トランプ大統領就任式(2017年・2025年)、米大統領選候補者討論会、米朝首脳会談など、世界が注目する歴史的場面の生中継通訳を多数担当。獨協大学では通訳中級および上級の講座を担当し、後進の育成にも力を注いでいる。
- 「中学英文法3年で、ビジネス通訳はできる」
- 複雑な構文に、頼らない
- 難しい日本語を、5歳児の日本語に変える
- 「やらないこと」を決める
- 枝葉末節は、映像化した時点で落ちる
- 捨てる勇気が、本番の確実さを支える
- 伝えたいことを全部詰め込んだ瞬間、本番でブレる
「中学英文法3年で、ビジネス通訳はできる」
柴原さんに「ビジネス通訳に必要な英文法は、どのくらいのレベルですか」と尋ねたとき、返ってきた答えは意外なものでした。
「私が以前読んだ本では、中学校の英文法三年間分の知識があれば、日本語から英語に直す通訳ができるっていうふうに言われました」
中学校で習う英文法だけで、ビジネス通訳ができる——プロを目指す通訳学校でも、TOEIC900点台の中上級者でさえ「もう一歩」が抜けないと第1回で見てきたばかりです。それなのに、本番で必要なのは中学英文法3年分でいい、と。
この一見矛盾するように見える話は、しかし、本番論として読むとぴたりと辻褄が合います。
「欲を出して凝った英文を使おうと思って自滅するぐらいなら、しっかりとした英文法の、たとえ稚拙に聞こえたとしても、それを正々堂々と作った英文の方が説得力が出ますし、必ず確実に通じます」
本番で頼るのは、欲ではなく、確実さ。これが、四半世紀の生放送通訳で柴原さんが体に刻んできた本番論です。

複雑な構文に、頼らない
本番で柴原さんが避けているもの。それは個別の単語や文法ではなく、複雑な構文に頼ることそのものです。
「日英の通訳で欲を出して、すごく複雑な、大学受験に出てくるような複雑な構文を使うのは、私は個人的にはとてもリスキーに思ってるんです。もちろんおできになられる方、たくさんいらっしゃいますけど、not only … but alsoも私、使いたくないです。どこかおかしくなりそうなので」
not only A but also B——英語学習者なら誰もが習う構文ですが、柴原さんはこれをひとつの例として挙げました。本番でこうした複雑な構文に頼ると、どこかで構造を見失う確率が上がる。同時通訳には悩む時間がない。構文に頼った瞬間、その構文に縛られて自滅するのです。
では、何を使うか。
「短い文章をつなげるっていう感じです」
"A is important. B is also important." 中学1年生でも作れる、シンプルな2文。けれど、これを正々堂々と言い切ることこそが、本番では最も強い。
難しい日本語を、5歳児の日本語に変える
もうひとつ、柴原さんが本番中に駆使する技術があります。難しい日本語を、英訳する前に、もう一段やさしい日本語に変換するという作業です。
「わからない時はざっくりとした訳でいい、まずその難しい日本語を頭の中で5歳の子どもでもわかるように日本語を日本語に変換して、それを英語に直す、自分の知っている英単語に直す」
たとえば、話し手が「敏捷性」と言ったとき。柴原さんレベルのプロなら、agilityという単語はすぐに出てきます。けれど柴原さんは、あえてその直訳を選びません。
「『素早く』とか『早く』というふうにすれば、小さい子もわかる。そしたらfastとかquickとかっていうのが出てくる」
「敏捷性」→「素早く」→fast。直訳のラインを捨て、意味だけを残し、自分の確実な語彙で運ぶ。正確な訳語に固執しないことで、本番中に止まるリスクを消すのです。
これは英語学習者にも、ビジネスパーソンの英語コミュニケーションにも、そのまま使える技術です。難しい日本語を頭の中で平易な日本語に変換してから、英語に直す。最初は遠回りに感じるかもしれませんが、本番で止まらないための一番の近道です。

「やらないこと」を決める
柴原さんが教えている学生のひとりに、こんな卒業生がいたといいます。
「先生、僕スマホやめます、っていう学生がいたんです。で、本当にやめたんです。そうしたらば、ものすごく時間がたくさん生まれて、本も読めるし、書き物もできるし、こんなに1日時間があるんだって気づきました、っていう」
その学生が時間管理術の本を読んだわけでも、効率化の手法を学んだわけでもありません。ただ、「やらないこと」をひとつ決めただけです。
柴原さん自身も、限られた時間で英語力を伸ばしていく人と、時間があっても伸び悩む人の差を、こう言い切ります。
「やらないことを決める、だと思います」
本番で力を出すために、本番でないところで何を捨てるか。時間も、エネルギーも、注意力も、すべて有限。だからこそ、「やる量」ではなく「やらない量」が成果を決めるのです。
枝葉末節は、映像化した時点で落ちる
柴原さんの「引き算」の哲学は、同時通訳の現場そのものにも貫かれています。英語から日本語に同時通訳するとき、柴原さんは話し手のすべての言葉を訳しているわけではありません。
「頭の中で描いた英語を聞いて描いた映像を日本語に落とし込むので、枝葉末節は映像化した時点で落ちますので、その描写を日本語にする」
話し手が長く話したとしても、聞き手の頭の中で映像化された時点で、本当に重要な部分とそうでない部分が自然に選別される。柴原さんは、その選別された「コア」だけを訳すのです。
すべてを訳そうとしたら、絶対に間に合わない。間に合わせようとして早口になれば、聞き手は理解できない。だから、捨てる。捨てた結果、コアだけが残る。コアだけだから、確実に伝わる。
これも、ビジネスのプレゼンや報告にそのまま当てはまる構造です。「全部伝える」を目指した瞬間、何ひとつ伝わらなくなる。聞き手の頭の中で映像化される、本当に重要なことだけを残す。それが、引き算の本番論です。

捨てる勇気が、本番の確実さを支える
柴原さんの話を整理してみます。
難しい英文構造を捨てる。直訳のラインを捨てる。枝葉末節を捨てる。本番でないところで「やらないこと」を決めて、時間とエネルギーを捨てる。柴原さんが教えてくれるのは、すべて「何を捨てるか」の話です。
世界の最前線で本番を踏み続けてきたプロが、本番で頼っているのは、複雑な構文でも、難しい語彙でも、すべてを訳す根性でもありません。捨てる勇気と、残ったコアへの集中。本番に持ち込むものを絞り込むことこそが、確実な成果を支える土台になっています。
伝えたいことを全部詰め込んだ瞬間、本番でブレる
大事なプレゼン、大事な商談、大事な報告——本番に向かう私たちはつい、「これも言いたい、あれも言いたい」と詰め込んでしまう。資料が分厚くなり、論点が増え、補足の補足が積み重なる。準備したものを全部出し切らなければ、と本番で焦る。
けれど、足し算をしているとき——私たちは本当に、相手のことを思えているでしょうか。
仕事は、誰かへの貢献です。価値を届けるからこそ、それは仕事になる。
だから、本番でもっとも大切なのは、最も伝えたいことを確実に、正確に相手に届けることです。
自分がその場を乗り切ることや、自分の能力を見せることではないはずです。
柴原さんがコンマ数秒の本番で複雑な構文を捨てるのも、枝葉末節を切り落とすのも、聞き手に貢献するためです。
引き算は、相手の顔を、ずっと見続けることです。自分のために足すのではなく、相手のために削る。それが、世界の最前線で本番を踏み続けてきた人が、四半世紀かけて体に刻んできた本番論でした。
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次回は、柴原さんの失敗マネジメントに迫ります。生放送中に「過半数(majority)」を「下半身」と言ってしまった瞬間、プロは何を考えるのか。失敗を次の機会への代替案に変換する「So what? Now what?」の発想と、続けることの本当の意味を伺います。

【柴原早苗さん インタビュー連載 第2シリーズ】
- 第1回 最高の結果を支えるのは、「完璧な基礎」へのこだわり——BBC・CNN同時通訳者・柴原早苗の本番論
- 第2回 本番で力を出す人は、捨てる勇気を持っている——BBC・CNN同時通訳者・柴原早苗の本番論(本記事)
- 第3回 本番で言葉を間違えた瞬間、プロは何を考えるか——BBC・CNN同時通訳者・柴原早苗の本番論(※近日公開)
岡 健作(おか・けんさく)
株式会社新恵社 代表取締役/株式会社スタディーハッカー創業者。1977年生まれ、福岡出身。2014年、メディア「STUDY HACKER」を立ち上げ。以後運営に携わる。
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