
26歳が、学校をつくることを決めた。
慈善事業でも、夢を語るだけの理想論でもない。岡内大晟さんは、日本の教育が抱える矛盾を「誰かが解決すべき問題」としてではなく、「自分が解決する問題」として引き受けた。自分のリスクで、自分の人生を賭けて。
その確信は、きれいごとから生まれたのではない。教育実習で感じた「自分には何も語る資格がない」という屈辱に近い違和感。広告代理店の営業マンとして400人以上の経営者と直接向き合い、肌で感じた「学校教育と社会のギャップ」。AO入試専門塾で積み上げた「どんな子でも輝かせることができる」という実証された確信。それらがひとりの教育者のなかで熟成し、26歳で起業という形をとって動き出した。
2023年4月、28歳のときに開校した青楓館高等学院(兵庫県明石市)は、不登校・発達障がい・くすぶっている子など、既存の学校の評価軸からはじき出されてきた生徒たちを受け入れ、個性尊重教育を実践する通信制サポート校だ。開校からわずか3年で累計350名が在籍し、注目される存在となっている。
今回は岡内さんに、学校設立に至るまでの経緯と思いを聞いた。
【プロフィール】
岡内 大晟(おかうち・たいせい)
青楓館高等学院 代表
1995年生まれ、大阪府出身。 関西大学 人間健康学部卒業。 大学時代の教育実習において、「社会のことを何も知らない自分が、何を教えられるのだろうか」という強い違和感を抱き、教員ではなく就職の道を選択。
2017年にPR会社へ入社し、400名以上の経営者へのインタビューを通じて、社会を動かすのは学校的な枠に収まらない"個性”であると確信する。その後、AO入試(現:総合型選抜)専門塾の校舎責任者として合格率100%を達成。
ひとりひとりの強みを引き出す教育の可能性を確信し、28歳で青楓館高等学院を設立。 開校3年で生徒数300名規模、全国2校の運営へと成長させる。「不登校・発達特性・無気力」といった多様な背景を持つ生徒ひとりひとりが、自らの個性を強みに変え、最も成長できる環境を作っている。
- 教師になることが、自分の"当たり前"だった
- 教育実習での違和感 ——「社会を知らない自分に、何が語れるんだ」
- 400人の経営者と向き合った3年間 ——「学力の話を、誰もしなかった」
- AO入試という「教育を変える手段」との出会い ——「誰でもウェルカム」の校舎で合格率100%
- 夢が会社のなかでは叶わないとわかった日 ——「じゃあ、出よう」
- 「勘違いできてよかった」 ——26歳、自分のリスクで学校をつくる
教師になることが、自分の"当たり前"だった
——もともと、教育との関わりは深かったんですか。
岡内さん:親が教員なので、自分も先生になるのが当たり前、というアイデンティティのもとで育ってきた感じですね。だから小学校・中学校・高校と、授業を受けながらずっと「自分だったらこう教えるな」という教育観・教師像を考え続けていました。
——学生時代から、教える経験も積んでいたんですね。
岡内さん:はい。体育教員になるつもりで教職も取りながら、学生時代は体操教室でアルバイトもしていました。教えることが当たり前の環境で育ったからか、自然とそういう仕事に就いていた感じですね。
教育実習での違和感 ——「社会を知らない自分に、何が語れるんだ」
——転機になった教育実習について教えてください。
岡内さん:わざと母校ではなく、公立の学校を希望しました。縁があって、偏差値40前後の高校に行かせてもらったんです。その子たちのほとんどが大学に行かない——就職か専門学校で、社会に出る直前の生徒たちでした。そこで気づいてしまったんです。社会のことを何も知らない自分が、キャリアのアドバイスをする資格がないと。
——その気づきが、進路を変えたわけですね。
岡内さん:そうです。教員免許は取ったけれど、このまま教壇に立つことへの違和感が消えなかった。語る資格を持った人間になるためには、まず社会に出るしかない。社会に出ることが、自分にとっての教育への本当の第一歩だと感じていました。
青楓館高等学院とは?
青楓館高等学院は、兵庫県明石市・芦屋市に拠点を置く通信制高校サポート校。「右にならえ」に終止符を打つという教育理念のもと、不登校・発達障がい・くすぶっている生徒たちを対象に、ひとりひとりの個性に向き合う教育を実践している。週5日開校・自由登校制で、プロジェクトベースドラーニング(PBL)と週1回の1on1を軸にした独自のカリキュラムが特徴。2025年には一般社団法人AIUEOよりAI先端モデル校に認定され、OECDとも連携している。
400人の経営者と向き合った3年間 ——「学力の話を、誰もしなかった」
——最初の仕事は広告代理店の営業だったとか。
岡内さん:リストアップからテレアポ・商談までひとりでこなす新規開拓の社長営業です。扱っていた商材は、売り上げアップにもコストダウンにも数字で直接説明しにくいもので、「なぜこれにお金を払うのか」を社長に納得してもらうところから始めなければならない。かなり難しい仕事でした。
——どう突破したんですか。
岡内さん:1年目はボコボコにされましたね。大学時代に営業インターンを経験していたので「自分はできる」と思っていたんですが、全然だった。でも2年目から軌道に乗って、3年目には「もうここで学ぶことはない」と感じるくらいになりました。数字をつくりながら気づいたのは、売れる営業マンの武器は論理じゃないということ。社長の気持ちを動かすのは、結局のところ人間的な熱量や関係性だった。
——400人以上の経営者と会うなかで、教育者としての目線で何を感じましたか。
岡内さん:会う人みんな、感謝だとか、人とのご縁を大事にすることを語っていました。学力の話を、誰もしなかったんです。社内を見渡しても、友人を見渡しても、勉強ができた人よりコミュニケーション能力が高かったり、愛嬌があったりする人のほうが活躍していた。痛いくらい感じましたね。
——経営者たちに、共通して感じることはありましたか。
岡内さん:型にはまらないからこそのクリエイティビティや発想力を、みなさん持っていました。しかも、失敗してもただ放り出さずにいた人が多い。うまくいかないときも、熱を消さずに「じゃあ自分でできる方法はないか」と考え続ける。そういう人間が経済を動かしていた。学校教育が育てようとしている人材と、実際に社会で活躍している人材のギャップを、この3年間で徹底的に肌で感じました。そしてそのギャップは、自分が何とかしなければならない問題だと思うようになっていた。
AO入試という「教育を変える手段」との出会い ——「誰でもウェルカム」の校舎で合格率100%
——その後、AO入試の専門塾に転職されましたね。
岡内さん:就活でたまたまその会社に出会って、AO入試という手段が日本の教育を変えられるかもしれないと思い、めちゃくちゃ熱狂しました。AO入試は志望理由書・小論文・面接が軸で、学力だけでは測れない人間を評価できる仕組みですから。広告営業で感じ続けていた「学校と社会のギャップを埋める手段」が、ここにあると思いました。
——どんな生徒を担当されていたんですか。
岡内さん:神奈川の校舎で60人ほどの生徒と、インターン生を含む10人ほどのスタッフをマネジメントしながら、自分でも授業をしていました。いわゆる「素材」が整っていない子が多かった。県立高校、世帯年収600万円台、部活はサッカーで県でベスト32、英検3級——そんな子たちをAO入試で合格させていく。誰でもウェルカムという文化の塾でした。
——それで合格率100%を達成したと。
岡内さん:はい。一見「使えない」スペックの子でも、ひとりひとりのなかに必ず光るものがある。それを見つけて言語化して、大学に伝わる形にしていく。どんな子も輝かせることができる——その確信がここで生まれました。これが、いまの個性尊重教育の原型です。

夢が会社のなかでは叶わないとわかった日 ——「じゃあ、出よう」
——そこからどういう経緯で独立に至ったんですか。
岡内さん:当時の上司だった藤原——いまの学院長ですが——とずっと「こういう学校がいいよね」と話し合っていたんです。ところが会社の方針として、学校はつくらないということになった。それで「じゃあ出よう」と。
——迷いはなかったですか。
岡内さん:自分のなかでやるべきことが明確だったので、迷いよりも「やるしかない」という気持ちの方が大きかったですね。それに、藤原が一緒についてきてくれた。藤原は自分より5歳上で、しかも自分を採用してくれた上司です。その人が、5歳年下のぺーぺーについてきてくれた。その重みは、いまでも忘れられないです。
「勘違いできてよかった」 ——26歳、自分のリスクで学校をつくる
——26歳で「学校をつくる」と言って、周りの反応は?
岡内さん:意外と反対されなかったんですよ。社長営業で出会った方たちは「そんなのできるよ」という感じで。26歳で、子どもがいなくて、結婚もしていない。ある社長に「いま以上に起業しやすいタイミングはない」と言われて、たしかにと思いました。
——起業してから学校設立まで、どう動いたんですか。
岡内さん:起業して2週間後くらいに、学校をつくったことがある人に話を聞く機会があって、つくり方がわかった。「これはできる」と思った瞬間に、一緒に出てきていた藤原にすぐ電話して「やろう」と。それが青楓館の始まりです。PLを引いてみたら「できるじゃん」と思えた。
——実際にはどうでしたか。
岡内さん:もちろんPLの通りには全然いかなかった。死にかけたこともあります(笑)。でも、勘違いできてよかったといまでも思っています。若さって、挑戦するのにふさわしい資格だと思っていて。リスクを取れる状況にある人間が、リスクを取らないでどうするんだと。あのとき勘違いして飛び込んでいなければ、青楓館は生まれていなかった。
——いま振り返って、あの決断をどう見ていますか。
岡内さん:必然だったと思っています。教育実習で感じた「語る資格がない」という違和感。経営者たちと向き合って見えてきた「学校と社会のギャップ」。AO塾で積み上げた「どんな子も輝ける」という確信。それが全部、青楓館という形につながっている。社会を知らないまま教壇に立つのではなく、社会のなかで本物を見てきたからこそ伝えられることがある。あの遠回りは、遠回りじゃなかったんです。

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ひとりの教育者が、現状の教育の矛盾を自分ごととして引き受け、自分のリスクで学校をつくった。その青楓館が実践する個性尊重教育とはどのようなものか。次回は、その中身に迫る。
【岡内大晟さん ほかのインタビュー記事はこちら】
岡 健作(おか・けんさく)
1977年生まれ、福岡出身。2014年、メディア「STUDY HACKER」を立ち上げ。以後運営に携わる。
X→@oka_kgs / Instagram→@oka_ken2010
/ 著書(amazon)