みなさんこんにちは、英語職人・時吉秀弥です。

突然ですが、I am の複数形は we are です。he is や she is の複数形は they are です。ところが you are の複数形は you are です。形が変わりません。なぜこんなことが起きるのかといちいち考えていては、いつまで経っても学習は進まないものですが、困ったことに、私はこういうことが気になってしまうたちです。

でもね、みなさん。実はこの現象から、人間の「『あなた』に対する気持ち」が見えてきたりするのです。今回は、この現象を引き起こす人間の心理が、英語だけではなくほかのヨーロッパ語の文法にもルールの変更を引き起こし、さらには日本語で「あなた」のことを『あなた』と言うようになった原因まで作っているのだ、というお話をします。

言葉を「かける」ということ

まずは「あなた」という言葉の感覚を実感してもらうために、日本語で考えてみましょう。

みなさんは日常会話のなかで、目の前にいる相手に向かって、抵抗なく「あなた」と言うことができますか? 例えば相手に意見を求めるときに、「あなたはこれ、どう思います?」と言うのと、「あなた」を抜いて「これ、どう思います?」と言うのと……。言いやすいのは後者ですよね。よく考えてみれば、相手がよほどの目下でなければ「あなた」という言葉は口にしないと思います。

なぜこんな心理が起きるのでしょう?

言語学のなかには「ポライトネス」という分野があります。politeness は英語では「礼儀正しさ」という意味ですが、言語学のポライトネスという分野は「人間同士の心理的な距離が言葉にどのような影響を与えるか」ということを研究します。この分野で活躍中の滝浦真人先生は講義で、「『言葉をかける』という言い回しがあることでわかるように、人に話しかけるということは、『物理的に人に触れる』ことに近い行為だ」とおっしゃっていました。

例えば、知らない動物に触れようとして近づいたら、逃げるか、反撃されます。自分のペットなら大胆にくっついても、撫でても大丈夫です。人と話すときにも、その人との関係に応じて、適切な距離を選択しないと相手に嫌な思いをさせたり、怒らせたりしてしまいます。そのため、人間の言語には、「距離をうまくとるシステム」が組み込まれているのです。ちなみに日本語では敬語がその機能を果たしています(*1)。

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「触れない」ための戦略

それでは「あなた」の話に戻ります。

目の前にいる話し相手に、「あなた」と呼びかけるのは、かなり気がひけることです。「あなた」と口にするのは、目の前の相手を物理的に触るのと同じくらい大胆で、時に失礼なことと思われるからです。

日本語の会話では「あなた」という言葉を口にするときは、怒ったり、叱ったりするときのほうが多いでしょう。普段の会話では、口にすることを避けることのほうが多いと思います。文字通り相手に「触れないように」しているのです。

さて、このように、「あなた」という言葉はなかなかデリケートな言葉です。これが英語ではどうなったのか、をお話します。実は英語でも「あなた」を口にするのには勇気が入ります。そこでどうしたのか。

英語では「あなた(thou)」の代わりに「あなたがた(you)」を使うようにしたのです。なぜ、単数形ではなく複数形を使うのか? それは「ターゲットがぼやける」からです。「あなた」なら目の前の相手以外の何者でもありませんが、「あなたがた」なら、個人の特定を避けることになります。目の前の相手に言葉で「直接触れること」を、ぼかすことで避けるという戦略をとったのです。

似たような戦略はほかのヨーロッパ語にも見られます。例えばフランス語では2人称単数の代名詞は tu ですが、これは親子、夫婦、兄弟、友人、恋人など、ごく親しい(「お前」扱いできる)間柄で使う表現であり、それ以外の間柄では単数の「あなた」に対して複数形の vous を使います。イタリア語でも親しい間柄なら tu ですが、そうでなければ Lei を使います。この Lei は英語で言えば she に当たる言葉です。3人称です。3人称(彼、彼女、それ)は今ここにいない人や物を話題に出すときに使う代名詞ですから、「距離をとる」ことによって、無礼を回避する戦略をとっていることになります。ポルトガル語も「お前」扱いなら tu ですが、そうでなければ3人称の você を使います。

このように、ぼかしたり、距離をとったりすることで、目の前にいる相手に「言葉で触れる」ことを回避する作戦をヨーロッパ語は取っています。これと似たような感覚は、実は日本語の「あなた」という言葉の歴史の中にも存在しています。

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「あなた」の距離

日本国語大辞典などを引いてみると、日本語の「あなた」は、実は元々は「あちら」という方向を表す言葉だったことがわかります。「こちら」は「こなた」、「そちら」は「そなた」です。

日本語の「これ」は自分の目の前にあるものを指し、「それ」は「自分のそばにはないが、相手のそばにあるもの」を指します。そして「あれ」は「自分から見ても相手から見ても離れているもの」を指します。「あれ」が一番遠くて、次に離れているのが「それ」、一番近いのが「これ」だとわかります。時代劇でときどき耳にする「そなた」という相手への呼びかけが「あなた」に比べて上から目線に感じるのは、「あなた」よりも距離が近いからかもしれません。

「お前」という言葉は、元は「自分の御前(おんまえ)に存在する」ということです。御がついているだけ元は丁寧のつもりだったのですが、「目の前」を意味するのですから、「あなた」に比べれば随分と距離が近いことがわかります。

「テメェ」は「手前」から来ており、「手前どもといたしましては」という言い方でわかる通り、1人称である「わたくし」を意味することでも使えます。つまり「わたし」と「あなた」が一体になるくらい近い距離だと考えてもいいかもしれません。「手前」は「御前」よりも近い、ということです。だから、より乱暴に聞こえるのかもしれませんね。

日本語は場所や方向を指す言葉で間接的に人を指すという伝統があります。「お殿様」の「殿」は建物ですし、「お屋形様」の「屋形」もそうです。言語学者の池上嘉彦先生が指摘するように、「天皇陛下におかせられましては」も天皇陛下を直接指すのではなく、天皇陛下のいらっしゃる場所を指す表現です。「あなた」や「そなた」も人ではなく、方向を指す表現です。

言葉は使われるうちに、「劣化」する

しっかりと距離をとることで、失礼になることを避ける表現として生まれた「あなた」ですが、現代日本語を話す我々は、それでもやはり、「あなた」を使うのに怯んでしまいます。言葉というのはそこに込められた元々の意味よりも、実際にどのようなシチュエーションで使うかでイメージが決まってしまうものだからです。

英語の you だって同じです。初めにあった「複数形をあえて使うことで対象をぼかし……」なんていう意味も、実際に “Hey, you!” なんて使い方をされていれば、そのありがたみは消えてしまいます。同じようなことはいたるところにあって、例えば英語の toilet も元は「化粧室」という意味だったのですが、使われているうちに劣化して、特にアメリカ英語では toilet は日本語の「便所」のイメージになり、restroom や bathroom なんていう新手の代用語が出てくるわけです。

***
日本語だけでなくいろんな国の言葉において、どうやら「あなた」(正確には2人称単数形ですね)は心理的に厄介な言葉のようです。ですから様々な工夫がなされて、それが文法にまで(例えば英語では複数扱い)影響を与えているのです。

これが人間というものなんですよ。「人と面と向かって話すのが苦手!」というそこのあなた、気に病む必要はありません。だって、これって人類共通の悩みだって、文法が証明してくれています!

(*1)滝浦先生のお話でとても印象に残ったのは、敬語は「丁寧さを表すための表現体系ではなくて、相手に対して距離をとるための表現体系だ」ということでした。例えば夫婦喧嘩でそれまでタメ口だったのが、急に「はい! もう、わかりました!」と敬語になったとき、それは敬意を表してはいませんよね。これは「相手を突き放して、距離を取ろうとしている表現」なのです。知らない相手、偉い相手には「近づきがたい」心理がはたらきますね。これを言葉で表すのが敬語表現なのです。