最高の結果を支えるのは、「完璧な基礎」へのこだわり——BBC・CNN同時通訳者・柴原早苗の本番論

最高の結果を支えるのは完璧な基礎へのこだわり——BBC・CNN同時通訳者柴原早苗が中上級者の伸び悩みの正体を語る

自信をもって臨んだはずの、プレゼンや商談の場。しっかりと準備をしたつもりなのに、現場で小さく判断に迷う。決断がぶれそうになる。

——その小さなブレは、どこから来ているのか。同時通訳という、コンマ数秒の本番が連続する仕事の世界から、ひとつのヒントが見えてきます。

プロを目指す通訳学校の受講生に、柴原早苗さんが毎学期、必ず勧める一冊があります。書店で売っている、薄い、高校受験向けの問題集——『中学英語総仕上げ』。10日間で終わるような、日付入りの初歩的なドリルです。

すでにTOEIC900点台、英検1級レベルの英語力を持って通訳学校の門を叩いた人たちに、なぜ中学英語の問題集を?

柴原さんはこう言います。

「通訳の世界では、一瞬の迷いが成果に現れる。その迷いは、わずかな基礎の抜けから出てくることが多いのです」

テストでは90点でも「優秀」だとみなされる。必ずしもすべてを完璧に押さえていなくても問題はない。けれど、通訳の現場では、その残りの10点が成果を決めることもある。

柴原さんが受講生に中学英語の問題集を勧めるのは、その10点——本人さえ気づいていない、わずかな基礎の抜けを潰すためです。

BBC・CNNで25年以上、生放送の同時通訳を続けてきた柴原早苗さん。世界の最前線で本番を踏み続けてきた一線級のビジネスパーソンであり、獨協大学やISSインスティテュートで多くの英語学習者を育ててきた教育者でもあります。

現役プロとして第一線に立ちながら、同時に教壇からも英語学習者を見てきた人だからこそ見える、中上級者が伸び悩む本当の理由とは何か。

連載第1回は、「もう基礎はできている」という思い込みが、なぜ伸びを止めるのかに迫ります。

構成・取材・写真/STUDY HACKER編集部

【プロフィール】

柴原 早苗(しばはら さなえ)

放送通訳者・会議通訳者。獨協大学およびISSインスティテュート講師。子ども時代をオランダで2年、イギリスで4年間過ごし、社会人を経てロンドンの大学院で修士号を取得。1998年6月、ロンドンのBBCワールド日本語放送で放送通訳デビュー。帰国後はCNNjの放送通訳を中心に、国際会議の同時通訳、トランプ大統領就任式(2017年・2025年)、米大統領選候補者討論会、米朝首脳会談など、世界が注目する歴史的場面の生中継通訳を多数担当。獨協大学では通訳中級および上級の講座を担当し、後進の育成にも力を注いでいる。

プロを目指す人に、中学英語をやらせる理由

柴原さんが通訳スクールで担当しているのは、最も初級の「準備科」というクラスです。とはいえ、ここに集まる受講生は、プロ通訳者を志す人たち。一般的な感覚で言えば、すでに「英語ができる人」たちです。

その人たちに、柴原さんは学期の初めにこう告げます。

「『騙されたと思って中学英語総仕上げという問題集をやってください』と申し上げるんです」

『騙されたと思って』という言葉が効いています。受講生たちは、最初は半信半疑です。プロを目指す自分が、いまさら中学英語?と。けれど、実際に取り組んだ人は変わる。柴原さんは続けます。

「基礎文法は、通訳スクールにいらっしゃる方は皆さんおできになっています。それでも、10日間完成の問題集をやっていると、『ああ、これ簡単』と思いつつ、ふっとペンが止まってしまうところがある。そこが、まだ積み残していたり、あやふやな箇所なんです」

「ああ、これ簡単」と思いながら、ふっとペンが止まる瞬間。その瞬間こそが、長年取りこぼされてきた弱点が顔を出す瞬間なのです。

9割できているという最も危険な感覚——中上級者の5%の積み残しがすべての階層に影響し続ける理由

「9割できている」という、最も危険な感覚

中上級者の英語学習者が直面する最大の壁は、おそらく「9割できている」という感覚です。

中学英語のテストをやれば、95点が取れる。日常会話なら困らない。英文を読めば、大意はつかめる。仕事のメールも、AIの助けを借りればなんとかなる。

本人としては「もう基礎はクリアしている」という認識です。

けれど、そこに罠があります。mentionにaboutをつけてしまう、discussを自動詞のように使ってしまう、不可算名詞のadviceを複数形にしてしまう——量としては、おそらく中学範囲のうち5%程度。

本人は気にする理由を見つけられず、素通りしてしまう。テストでは95点が取れているのですから、当然の判断です。

けれど、中学英語は、すべての英語の土台です。高校英語も、大学受験英語も、TOEICも、ビジネス英語も、同時通訳の英語も、すべてこの土台の上に積み上がっている。土台に5%の穴があれば、その上の階層すべてに、その穴の影響が及び続ける。

中学英語だからこそ、100%を目指すべきなのです。素通りされた5%は、本番で必ず、迷いとして表に現れる。

「正々堂々と訳せない」という症状

柴原さんは、この数%を放置するとどうなるかを、現役プロとしての実感で語ってくれました。

「そこのところが欠落していると、もしその部分が出てきた時に、正々堂々と訳せなくなってしまうんです」

「正々堂々と訳せない」——とても示唆的な表現です。内容は合っている。意味も通る。けれど、文法的にちょっとあやふやな部分があるから、自信を持って言い切れない。声がわずかにこもる。語尾が弱くなる。間が空く。

翻訳と違って、同時通訳には悩んでいる時間がありません。あやふやな部分に出会った瞬間、頭の中の処理が一瞬遅れる。そのコンマ数秒の遅れが、声のトーンに、間に、語尾に、すべて漏れ出てしまう。

本人の中の「ちょっとした不安」が、聞き手にはそのまま「この通訳者、大丈夫か?」という不安として届く

柴原さんはこう続けます。

「通訳者がちょっとおどおどしてしまうと、それだけで、いくら内容的には正しく訳せていても、『この通訳者大丈夫かな』って思われかねないです」

つまり、内容の正しさと、聞き手に与える印象は、別物だということ。同じ訳語でも、自信を持って言える人と、こもりがちに言う人とでは、聞き手に与える印象がまったく違うのです。

TOEICのスコアと、話せる実感のズレ

そして、これとまったく同じ症状が、英語学習者にも現れます。

TOEICのスコアは高いのに、ビジネスの場で英語を話すと頼りなく聞こえてしまう人。発音は悪くないのに、なぜか説得力が伝わってこない人。文法の試験は完璧なのに、いざ話そうとすると言葉が出てこない人。

こうした「スコアと実感のズレ」の正体のひとつが、まさにこの「正々堂々」の有無にあるのではないか、と柴原さんの話は示唆します。

本人の中であやふやな部分が残っていると、それを口にする瞬間、無意識にブレーキがかかる。声に出ないかすかなためらいが、聞き手にはしっかり伝わってしまう。

土台がグラグラのままだから伸び悩む——いまさら中学英語に戻ることは敗北ではなく次のステップへの最短距離

土台が、グラグラのままだから

柴原さんは、伸び悩んでいる学習者の状態を、家づくりに例えてくれました。

「伸び悩んでおられる方っていうのは、家づくりで言うところの土台がまだグラグラしているので、そのグラグラした状態なのに、難しいものを作り上げようとして、うまくいかなくて、挫折してつまらなくなってっていう悪循環だと」

逆に言えば、伸び悩んでいる人が必要としているのは、もっと難しい教材ではない。すでに「できる」と思っている領域に戻って、土台を固め直すことなのです。

これは、本人にとっては逆説に聞こえます。「今のレベルで止まっているのに、なぜもっと簡単なものに戻るのか」「もっと上の教材に挑戦すべきなのではないか」と。けれど、柴原さんが現場で見ているのは、その逆の現実です。

「やはりこの文法がきっちりとわかってきたとか、基礎単語がわかってきたっていう方は、その時点でおもしろく楽しくなってくるんですよ、英語の学習が」

土台が固まった瞬間、その上に積み上がっていた難しいものが、急にしっくりと収まってくる。グラグラだった建物が、しっかりと立ち上がる。その手応えが、学習を楽しくする。

「楽しい」は、努力の結果ではなく、土台が固まったことのシグナルなのです。

「教材のレベルを下げる」のは、敗北ではない

とはいえ、中上級者にとって、いまさら中学英語に戻ることには、ある種の心理的抵抗があります。それは「自分のレベルを下げる」「後退する」という感覚と結びついているからです。

けれど柴原さんは、この感覚をやさしくほぐします。

「基礎をやることは、つまり教材のレベルを下げるってことですけど、そのこと自体は自分への敗北でもなんでもなくて、むしろそこをやるほうが素早く次のステップに行ける」

家を建てるときの土台に喩えて、こう考えてみてください。2階の窓の建てつけが少し悪くても、家は倒れない。後からでも直せます。けれど、土台が適当ならば、家そのものが倒れてしまう。

柴原さんは笑ってこう付け加えました。

「シロアリに食べられちゃったりとかしますから」

2階の窓の建てつけは、後からでも直せる。けれど土台のひずみは、上に何階を積み上げても解決しない。むしろ積み上げるほどに、上のひずみとして増幅される。

中上級者ほど、いまさら中学英語に戻る勇気が必要なのは、そういう理由です。

もっと踏み込めば、基礎は「落としている」だけでも成果に響きます。けれど、それで足りるわけではありません。基礎を「わかっている」だけでも、本番では不十分です。

一流が目指すのは、基礎を磨き続け、身体化してしまうこと——知識として持っているのではなく、コンマ数秒で反射として動くところまで定着させること。それが、世界の最前線で本番を踏み続けてきた人の、土台への向き合い方です。

声と表情も、英語のうちである

柴原さんは、デリバリーの話をさらに踏み込んで語ってくれました。通訳の現場では、訳の正確さだけでなく、感情のトーンも乗せる必要があるのだと。

「サッカーの勝利インタビューの時に、勝った選手はウキウキして喋っていると思うんですけれども、通訳者が沈んだ声でやってしまうと、聞いている方の気分が下がるんです」

勝利の高揚は明るい声で。悲報は沈んだトーンで。「正確さだけではない」のが、通訳者に求められる仕事なのです。

これは英語学習者にとっても深く示唆的です。英語を話す時、私たちはつい「正しい単語」「正しい文法」だけに意識を向けがちです。けれど、ビジネスの場で実際にコミュニケーションを成立させているのは、言葉そのものではなく、声と表情と姿勢が運ぶ感情の側面です。

淡々と正確に話す人より、少しブロークンでも明るく話す人の方が、結果的に相手の心を動かすことがある。

そして、その「明るさ」「自信」「気持ちの乗せ方」は、頭の中であやふやな部分があると出てこない。「土台が固まっていない」という事実は、最終的にはデリバリーの自信のなさとして相手に伝わるのです。

できているつもりを疑う勇気が伸びる人の共通項——柴原早苗が教壇から見続けた基礎100%へのこだわりの意味

「できているつもり」を、疑う勇気

長年、英語学習者と通訳者の両方を見てきた柴原さんの観察を、改めて整理してみます。

伸び悩む人は、自分が「できている」と思っている領域の中で、勉強を続けようとします。新しい単語を覚え、より難しい教材に挑戦し、上の資格試験を目指す。

けれど、その努力が報われないのは、本人が見落としている数%の積み残しが、すべての階層に影響を及ぼしているからです。

逆に、伸びる人は、「できているはず」の領域を疑う勇気を持っています。プロを目指す通訳学校の受講生が、中学英語の問題集を真面目に解く。何度も会話で通じたはずの文法を、もう一度確認する。

「もう知っている」という感覚を、いったん脇に置くことができるのです。

柴原さんが「やった人は伸びます」と即答できるのは、その勇気を持った人だけが、実際に次のレベルに到達するのを見続けてきたからです。

できているつもりが、本番の成果を曇らせる

これは英語学習だけの話ではありません。どんな仕事にも、そこのコアとなる部分があります。英語で言えば「中学英語」にあたる、その仕事の土台です。

そのコアの部分を、9割で済ませてはいけない。本人は気にも留めず素通りしている数%のあやふやさが、本番のプレゼンで、商談で、決断の場で、判断の精度を曇らせる。

本人は気づかない。けれど、結果は確実に変わる。

コアは、100%を目指す。これが、柴原さんが教壇から見続けてきた「伸びる人」の共通項です。

英語学習者にも、すべてのビジネスパーソンにも当てはまる、シンプルで強い真実です。

あなたの仕事の「土台」はなんでしょう。

柴原さんの基礎への妥協のないこだわりに、一流の現場に居続ける人のその誠実な態度に、私たちは学ぶべきことがあるはずです。

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次回は、柴原さんの「引き算」の英語学習論に迫ります。「中学英文法3年分で、ビジネス通訳はできる」——プロほど、難しい英語を使わない。プロほど、覚えようとしない。プロほど、全部訳そうとしない。一見、常識を覆すように見えるこの発想は、実は英語学習者の苦しみを解放する、シンプルで強い哲学でした。

コアは100%を目指す——BBC・CNN同時通訳者柴原早苗が伸びる人と伸び悩む人を分ける基礎への向き合い方

柴原早苗さん インタビュー連載 第2シリーズ】

  • 第1回 最高の結果を支えるのは、「完璧な基礎」へのこだわり——BBC・CNN同時通訳者・柴原早苗の本番論(本記事)
  • 第2回 本番で力を出す人は、捨てる勇気を持っている——BBC・CNN同時通訳者・柴原早苗の本番論(※近日公開)
  • 第3回 本番で言葉を間違えた瞬間、プロは何を考えるか——BBC・CNN同時通訳者・柴原早苗の本番論(※近日公開)
【ライタープロフィール】
岡 健作(おか・けんさく)

株式会社新恵社 代表取締役/株式会社スタディーハッカー創業者。1977年生まれ、福岡出身。2014年、メディア「STUDY HACKER」を立ち上げ。以後運営に携わる。
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