現役選手時代に輝かしい記録を打ち立てた後も、名解説者として、また4球団にわたって名監督として活躍した野球評論家の野村克也さんは、人は何歳になっても年齢に適した活躍をすることができるといいます。
今回は、野村さんが持ち前のマネジメント力を存分に発揮した、球史に残るリリーフ投手誕生の舞台裏を追いながら、野村流キャリア論の本質となる思考に迫ります。
【格言】 どんな職業にも、 「適齢適所」がある
“適齢適所”ということで、すぐに思い浮かぶのが“黄金の左腕”といわれた江夏豊※である。
江夏は、わたしが選手兼監督だった南海に阪神から移籍してきた。そのころ、江夏の球には、すでに往年の威力はなかった。さらには、心臓疾患、血行障害を患い、長いイニングの投球が困難になっていた。 しかし、若い投手にはない超一流の投球術は健在だ。コントロールの素晴らしさがあり、バッターの心理を読む巧さもある。そのうえ、バッターとの駆け引き、集中力、勝負度胸も備えていた。
わたしが“江夏再生策”として考えたのが、リリーフへの転向だった。しかし、先発への未練が断ちきれない江夏は、簡単にはその意向を受け入れてくれない。最終的に江夏の首を縦に振らせたのは、「おまえなら本当のリリーフ投手として、プロ野球に革命が起こせる」という言葉だった。
リリーフ転向後の江夏の活躍は、まさしくプロ野球界に革命を起こすものだった。ピッチャーの役割分担が明確になるのは、江夏以降のことである。まさに適齢適所である。キャリアを積んだ人には、そこで培ったスキルを活かす場所が必ずある。
※江夏豊 日本記録のシーズン401奪三振、最優秀救援投手5回などを記録した元プロ野球投手。オールスターゲームでの9連続奪三振や1979年日本シリーズでの「江夏の21球」はあまりに有名。南海時代、野村の野球観に感銘し、自宅も野村の近所に引っ越したという
【プロフィール】 野村克也(のむら・かつや) 1935年、京都府に生まれる。京都府立峰山高校を卒業し、1954年にテスト生として南海ホークスに入団。3年目の1956年からレギュラーに定着すると、現役生活27年間にわたり球界を代表する捕手として活躍。歴代2位の通算657本塁打、戦後初の三冠王などその強打で数々の記録を打ち立て、MVP5回、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回など、タイトルを多数獲得。また、1970年の南海でのプレイングマネージャー就任以降、延べ4球団で監督を歴任。ヤクルトでは「ID野球」で黄金期を築き、楽天では球団初のクライマックスシリーズ出場を果たすなど輝かしい功績を残した。現在は野球評論家として活躍中。
Photo◎産経ビジュアル
*** 天才と呼ばれるほどの才能に恵まれた者でも、年齢や体力の衰えにはどうしても抗えません。でも、「適齢適所」を見極めれば再び輝くことができるというまぎれもない事実とエピソードは、わたしたちの心を深く打ちます。
何歳になっても活躍し続ける人は、そのときの自分に与えられた条件を最大限に活かし、けっしてあきらめることなく自分の場所を探し続けている――。それは天才たちだけに与えられた特権ではなく、わたしたちすべての人に共通する、普遍的な方法論といえるのでしょう。