NLP(※)における「アンカリング」とは、過去のポジティブな記憶や感情を、船がアンカーを下ろすようにつなぎとめておき、いつでも引き出せるようにするテクニックです(※Neuro Linguistic Programing。仕事や人生の改善に特化した、心理学の一分野))。
仕事がうまくいったときなど、「自分はやればできるんだ!」と自信に満ちあふれることがありますよね。しかし、その状態は長続きしないもの。もし、そのときの高揚感を保存食のようにとっておいて、いつでも活用できたら? 嫌なことがあって落ち込んでいるときや、モチベーションを見失ったときなど、気分を高めたい場面で役立つはずです。
アンカリングとはどのようなテクニックなのか、実践するにはどうすればいいのか、本記事で詳しく学んでいきましょう。「アンカリング効果」との違いもご説明します。
アンカリングとは
アンカリングのわかりやすい例は、スポーツ選手が行なう「ルーティン」。元プロ野球選手のイチローさんは、バッターボックスに立つとき、いつも同じ動作を行なっていたことで知られています。
イチロー選手の最も有名なルーティンは、バットを垂直に構えてピッチャーに向ける姿勢……いわゆる「イチローポーズ」です。ほかにも、バットをゴルフスイングのように1回振る、屈伸をする、バッターボックスには必ず右足から入るなど、イチロー選手のルーティンにはさまざまな動作が含まれていました。こうしたお決まりの動作を行なうことで、イチロー選手は「集中モード」に入り、好成績を出し続けられたのです。
このように、特定の刺激をキッカケ(トリガー)として、特定の心理状態(アンカー)を引き出すのが、アンカリングというテクニック。スポーツ選手に限らず、ビジネスパーソンにとっても役に立ちます。「親指を握ると仕事モードになれる」「深呼吸を3回するとリラックスできる」など、自分なりのアンカリングをもっておくことで、日々の体調や気分といった不確定要素に左右されず、高いパフォーマンスを維持できるのです。
ちなみに、アンカーとは英語で「錨(いかり)」、アンカリングとは「錨で船をつなぎとめておくこと」を意味します。錨と船との関係から派生し、特定の心理状態をつなぎとめ、いつでも再現できるようにするテクニックが、アンカリングと呼ばれるようになりました。
なお、本記事の最後で詳しく説明しますが、マーケティングなどで使われる「アンカリング効果」とは別物なので、ご注意ください。
アンカリングの活用法
仕事や勉強、日常生活で役立つアンカリングの活用法を3つご紹介します。
集中モードのスイッチをつくる
仕事に取りかかろうと机の前に座ったものの、エンジンがかかるまで時間を要してしまう……。そんなお悩みは、アンカリングで解消できるかもしれません。イチロー選手のルーティンと同様、「このジェスチャーを行なえば集中モードに入れる」というスイッチ(トリガー)をもっておくことで、ON/OFFのメリハリをつけやすくなり、仕事の能率をアップさせる効果が期待できます。
平常心を取り戻す
プレゼンテーションや会議が近づくと緊張し、普段のパフォーマンスを発揮できなくなってしまう方にも、アンカリングは役立ちます。緊張を取り除く方法としては、「手のひらに3回『人』と書いて飲み込む」「深呼吸をする」などが知られていますよね。とにかく自分の中で「これをやれば平常心に戻れる」と信じられる “おまじない” を、何かしらもっておくことが重要なのです。
気分を変える
「仕事でミスしてしまった」「信じていた人に裏切られた」などのネガティブな出来事があり、落ち込んでしまうこともあるでしょう。しかし、暗い気分をいつまでも引きずっていては、仕事や日々の暮らしに支障が出てしまいます。アンカリングのスキルがあれば、自分の感情をコントロールするのがうまくなるので、多少へこたれることがあってもすぐに立ち直れるのです。
アンカリングのやり方
アンカリングを仕事や勉強に取り入れるには、どうすればいいのでしょうか? 人材育成コンサルタント・千代鶴直愛氏の解説を参考に、具体的なやり方を4ステップでご紹介します。
1. アンカーを設定する
まず、アンカリングによって引き出したい、ポジティブなイメージ(アンカー)を設定します。過去の体験を振り返り、自分が最も自信にあふれていた瞬間や、いちばん輝いていた瞬間を思い出しましょう。千代鶴氏によると、「あのときの自分は輝いていた」と思えるなら、必ずしも華々しい成果を挙げた経験でなくても構わないそうです。
「大変なプロジェクトをやり切った瞬間」「プレゼンで理想通りに話せたとき」などが、アンカーの例として考えられます。客観的な良し悪しよりも、「その経験が自分の中でポジティブなものとして刻まれているかどうか」を重視してください。
反対に、客観的に見て良い結果となった出来事でも、自分の中でネガティブなイメージがついている体験は、アンカーとして使えません。たとえば、「プロジェクトを大成功で終えられた」というポジティブな経験に付随して、「嫌いだった当時の上司」というネガティブな記憶も想起してしまうような出来事は、アンカーとして不適切なのです。
このステップで設定した「輝かしい瞬間」のイメージは、アンカリング時に毎回想起することになるので、妥協せずにしっかりとイメージを固めておきましょう。目に映っていたもの・音・匂いなど、細部まで具体的に思い浮かべられる記憶を選ぶのが、アンカリングを成功させるコツです。
【アンカーの例】
- 大変なプロジェクトをやり切った瞬間
- プレゼンテーションで理想通りに話せたとき
2. 「最高の自分」を表現するフレーズをつくる
ステップ1で思い出した「輝かしい瞬間」において自分がどんな気分だったかを、一言で表現しましょう。「自分はどんなことでも成し遂げられる」「自分は天才だ」「自分は最高に幸せだ」という具合です。今後アンカリングを行なう際に毎回使うことになるので、なるべく短くてシンプルな言葉にしてください。
千代鶴氏によると、「自分にとってしっくりくる」言葉をフレーズに選ぶのが重要なのだそう。自分の感覚からあまりにかけ離れたフレーズを設定すると、「いくらなんでも言いすぎだ」という自己批判が生まれ、アンカリングの効果が減退してしまうからです。「自分は天才だ」が大げさすぎると感じるなら、「自分には能力がある」「自分は優秀だ」など、しっくりくると思えるまで吟味してください。
【アンカーに対応するフレーズの例】
- 大変なプロジェクトをやり切った瞬間
「自分にはビジネスパーソンとしての才能がある」
「自分はどんなことでもやり遂げられる」 - プレゼンテーションで理想通りに話せたとき
「自分には人にものを伝える能力がある」
「自分はプレゼンの天才だ」
3. トリガーを設定する
次は、アンカーを引き出すためのジェスチャーとして「トリガー」を設定します。アンカリングがうまくいけば「親指を包んでこぶしをつくると、プロジェクト達成時の感情がよみがえる」というような流れになるのですが、「親指を包んでこぶしをつくる」がトリガーに当たります。
千代鶴氏が紹介しているトリガーの例は、「左手の親指の先と中指の先を合わせる」「左手の親指の爪をじっと見る」など。手だけで実行できるくらい手軽で、かつ日常生活ではまずやらない動きを設定するのがオススメです。
難しすぎたり簡単すぎたりするジェスチャーは、トリガーとして使えません。トリガーにふさわしいジェスチャーの条件は、次章「アンカリングにおけるトリガーの条件」で詳しく説明します。
【トリガーの例】
- 左手の親指の先と中指の先を合わせる
- 左手の親指の爪をじっと眺める
- 左手の親指を包んでこぶしをつくる
4. アンカー・フレーズ・トリガーを関連づける
最後に、これまで設定してきた「アンカー」「フレーズ」「トリガー」をひもづけます。ひもづけを行なうのに適しているのは、ほかの人に邪魔されない静かな場所。千代鶴氏は、「夜中の自分の部屋」を推奨しています。
まずは、椅子やソファにゆったりと腰かけ、深くゆっくり呼吸して、気持ちをリラックスさせてください。リラックスしきったら、いよいよひもづけを開始しましょう。
ステップ1で設定した「自分が輝いていた瞬間」(アンカー)をイメージします。当時の心境はもちろん、五感で感じるもの、近くにいる人の表情など、なるべく詳細に、具体的に思い浮かべてください。当時の経験を、そっくりそのまま頭の中で再現するような感じです。
当時の体験に浸って気分が高まってきたら、ステップ2で設定したフレーズを心の中で唱えながら、ステップ3のジェスチャー(トリガー)を行なってください。一連の作業を何度か繰り返し、「フレーズを唱えジェスチャーを行なうと、反射的に記憶がよみがえる」という状態になったら、アンカリングは完成です。最初はうまくいかなくても、毎日やっているうち、アンカリングのコツがつかめてくるでしょう。
アンカリングにおけるトリガーの条件
アンカリングの際に注意すべきなのは、どんなジェスチャーをトリガーとして設定するかです。全米NLP協会認定トレーナーの加藤聖龍氏は、トリガーの条件を3つ挙げています。
ユニークな刺激である
「ほおをかく」「コーヒーを飲む」「首を回す」など、あまりに日常的すぎる動作は、トリガーとしてふさわしくありません。「ほおをかく」を仕事モードに入るトリガーとして設定すると、ほおがかゆくてかいたときなど、意図していない状況でアンカリングが発動してしまうからです。トリガーは、アンカリングを発動させたいとき以外は行なわないような行動(ユニークな刺激)であるべきなのです。
イチロー選手のルーティンは、まさに「ユニークな刺激」。「バットを垂直に構え、ピッチャーに向ける」という動作は、バッティングのとき以外は行なわないでしょう。
もちろん、「仕事のとき以外はコーヒーを飲まない」などと厳密に決めるのであれば、身近な動作もトリガーとして活用できます。しかし、基本的に「普通に暮らしていたらまず行なわない動作」をトリガーに設定するのが無難でしょう。
繰り返せる
トリガーにはユニークな動作がよい、といっても、あまり複雑すぎてはいけません。「簡単に再現できる」というのも、トリガーの条件として大切なのです。たとえば、「手を3回握って、首を回して、大きく伸びをして、屈伸をして……」と複雑すぎる行動をトリガーに設定すると、ジャスチャーの再現が難しくなり、アンカリングが活用しづらくなってしまいます。
イチロー選手のルーティンのように、長年の反復によって身に染みついている動作なら、多少複雑でも構いませんが、アンカリングの初心者であれば、簡単で覚えやすい動作を用いるのがオススメです。
シチュエーションを選ばない
「腕立て伏せを10回」などの動作も、トリガーとしては不向きです。腕立て伏せは、いつでもどこでもできるわけではないからです。家ならば問題ありませんが、オフィスなどで腕立て伏せをするのは、さすがに気が引けますよね。
同じ理由から、「ランニングする」「『上を向いて歩こう』を歌う」なども、動作を実行できる場面が限られてしまうので、トリガーとして実用的ではありません。特に、「集中力」を引き出すためのアンカリングは仕事中に使いたいでしょうから、「座ったままできる」や「オフィスでできる」という条件を満たすトリガーを設定するべきです。
以上の理由から、アンカリングに用いるジェスチャーとしては、手や指のちょっとした動きだけで完結するものが最適であると考えられます。
「アンカリング」と「アンカリング効果」は別物!
アンカリングと似た言葉に「アンカリング効果」があります。同じ「アンカリング」という言葉を使ってはいますが、両者はまるきり別の概念なので注意してください。
アンカリング効果とは、「最初に提示された基準によって、後の判断が影響を受けてしまう」という、心理学の概念。通販番組などでは「通常価格1万円のところ、8,000円!」などと、わざわざ値引き前の価格も見せていますよね。これは、アンカリング効果を応用したテクニック。最初に「1万円」と言われると、その1万円という数字が基準(アンカー)として記憶に刻まれるため、次に出てきた「8,000円」という数字が相対的に安く感じられるのです。
アンカリング効果の名称も、船の錨(アンカー)に由来します。船が錨を下ろすと、船と錨を結ぶロープの範囲内でしか動けなくなりますよね。それと同様、「最初に与えられた数値や印象が基準点(アンカー)となり、思考を制限してしまう」という意味で名づけられました。
アンカリング効果の実験
東京大学教授で認知科学の専門家・植田一博氏らが2017年に発表した論文では、アンカリング効果の実験結果が紹介されています。「言葉のアンカー」と「数字のアンカー」、どちらのほうがアンカリング効果が強いかを試した実験です。
実験では、被験者である220人の学生が、「イギリスの総人口」や「飛行機代」など6種類の数値を推定。以下のような質問に答えました。
- 滋賀県の総人口とイギリスの総人口、どちらが多いと思いますか?(言葉アンカー)
- 139万人とイギリスの総人口、どちらが多いと思いますか?(数字アンカー)
アンカーの役割を果たす質問に答えたあと、「イギリスの総人口は何人だと思いますか?」と問われます。実験の結果、「数字アンカー」のほうが、アンカリング効果が強かったそうです。
つまり、顧客に商品をアピールするときは、先述の例のように「通常価格1万円のところ、8,000円に値引きしますよ!」と具体的な数字を出すほうが効果的ということですね。
自己発生アンカリング効果
アンカリング効果の一種に「自己発生アンカリング効果」があります。神奈川大学の臨床心理学教授・杉本崇氏によると、自己発生アンカリングとは、アンカー(基準)が与えられていないにもかかわらず、自分で勝手に設定したアンカーによって判断が影響されることを指すそう。
たとえば、「エタノールは何度で凍るでしょう?」という問題。あなたなら、何と答えるでしょうか?
エタノールの凝固点を知らない人は、「水の凝固点は0度」という既知の情報を基準として、答えを推測するはず。つまり、自分で勝手に設定したアンカーにより、答えが引っ張られてしまうのです(ちなみに、エタノールの凝固点は約マイナス114度なので、0度を基準に答えると大ハズレになります)。
いま解説した「アンカリング効果」は、単に「アンカリング」と呼ばれることもあるので、NLPにおけるアンカリングと混同しないよう、ご注意ください。
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アンカリングは、ネガティブ思考に陥りやすい方や、モチベーションを見失いやすい方には、特にオススメのテクニックです。アンカリングのスキルを身につけ、イチロー選手のような鋼のメンタルを目指しましょう。
(参考)
ダイヤモンド・オンライン|イチロー引退で改めて感じる偉大さ、記録だけでない影響の数々
Weblio英和辞書|anchorの意味・使い方・読み方
ITmedia エンタープライズ|たった3秒で“最高の自分”に――イチローもやっている「アンカリング」テクニック
加藤聖龍(2009), 『手にとるようにNLPがわかる本』, かんき出版.
中野明, 『カフェ de 読む 図解 ロジカルシンキングがよくわかる本』, Kindle版.
J-STAGE|アンカリング効果の発生原因は数字か意味か
J-STAGE|対象に関する知識量が少ない場合のアンカリング効果:意味的過程説と数的過程説の比較
コトバンク|エタノール
【ライタープロフィール】
佐藤舜
大学で哲学を専攻し、人文科学系の読書経験が豊富。特に心理学や脳科学分野での執筆を得意としており、200本以上の執筆実績をもつ。幅広いリサーチ経験から記憶術・文章術のノウハウを獲得。「読者の知的好奇心を刺激できるライター」をモットーに、教養を広げるよう努めている。