映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』で有名な「このペンを売ってください(Sell me this pen)」というフレーズは、セールスの現場だけでなく、人間の “買う” という行動そのものを考えるうえで示唆に富んだエピソードです。
劇中で、ペンの質感や書き味といったペンの特長をアピールするだけでは買い手は動きません。しかし、「いますぐサインをしなければ、大事なチャンスを逃してしまう」という状況を演出した途端、ペンがなかったら困ると感じ、観客はその瞬間に「買う」という行為が生まれます。
そもそも、私たちがモノやサービスにお金を支払うとき、何が心を動かしているのでしょうか。合理的に考えれば「余計な出費は避けたい」と思うはずなのに、なぜか「つい買ってしまう」瞬間があるのはなぜなのか。
本記事では、「人はなぜモノを買うのか」という根源的なテーマを掘り下げながら、心理学や行動経済学で知られる「ロス・アバージョン(損失回避バイアス)」などをキーワードに、購入欲が湧くメカニズムを紐解いていきます。
大西耕介
「人の行動」に潜む、意外な真実を独自の視点で解き明かすライター。身近な例から社会現象まで、独自の視点で考察し、意外な真実を提示する。趣味は、古い町並みを散策しながら、その土地の歴史や、人々の営みに思いを馳せること。
- 「このペンを売ってください」が示す購買行動の本質
- 人はなぜ「ものを買う」のか?
- ロス・アバージョンが購買心理を後押しする理由
- 「買ってしまう」心理を生むトリガーたち
- それでも私たちが「買う」のをやめられない理由
- 私たちはこうして「買ってしまう」
「このペンを売ってください」が示す購買行動の本質
映画のシーンでは、特長を訴求した回答は「不正解」として描かれました。ではなぜそれは不正解なのでしょう。ここにこし、「人がなにかを買うときの気持ち」の秘密がありそうです。
機能・特徴だけでは人は買わない
「このペンを売ってください」と言われたとき、多くの人はつい「このペンは書きやすくて丈夫です」「高級感がありますよ」とペンの特徴ばかりを強調してしまいがちです
しかし、それだけでは「いま買わなきゃ」と思わせる決定打になりづらい。なぜなら、私たちは商品のスペックではなく「自分にとって必要かどうか」で買うかどうかを判断するからです。
「必要だ」と感じる瞬間が鍵
映画では、サインが必要な緊急のシーンを創り出すことで、「ペンをもたないと大変なことになる」という状況が明確になりました。まさに、「ないと困る」「いま手に入れたい」という強い気持ちが芽生える瞬間こそ、購買行動が起こるきっかけなのです。
このエピソードは、人間が「ものを買う」という行為において「必要性の自覚」がいかに大切かを端的に示しています。
人はなぜ「ものを買う」のか?
私たちの購買行動の裏側には、さまざまな心理メカニズムが働いています。なぜ人は「欲しい」と感じ、「買おう」と決めるのか。その判断の源泉を探ってみましょう。
欲求と必要性のあいだ
私たちが買い物をするとき、そこには「欲しい」という感情と「必要だ」という認識が交錯しています。
欲しい:「新作のスニーカーがカッコいいから欲しい」「話題のゲームをやってみたい」などの"楽しさ"や"所有欲"が主な原動力。
必要:「仕事で使う道具が壊れたから新しいものがいる」「健康を維持するために必要な栄養サプリを買う」など、“もっていないと困る” という切実さが主な原動力。
もちろん、すべての買い物が「必要かつ欲しい」の理想的な形とは限りません。むしろ「そこまで必要じゃないけど、なんとなく欲しくて買ってしまう」という経験は誰にでもあるはず。ここには、理性では説明しきれない感情の作用が大きく働いているのです。
お金と価値の “交換” では片づけられない
経済学的には「支払う金額以上の価値を感じれば人は買う」と整理できますが、実際はもう少し複雑です。価値の感じ方は人それぞれで、時々刻々と変化しますし、社会的な要因やまわりの評価、流行などが大きく影響を与えます。
そこには心理学や行動経済学で研究されてきた「バイアス」が多数存在し、ロス・アバージョンもその一つと言えます。
ロス・アバージョンが購買心理を後押しする理由
ロス・アバージョン(損失回避バイアス)とは
ロス・アバージョンとは、「人は得をすることよりも、損をすることを強く避けようとする」という行動経済学の概念です。
たとえば「1,000円を得られるチャンス」と「1,000円を失うリスク」が同じ確率で存在するとき、ほとんどの人は「失うリスク」を過大評価してしまうのです。
「損をしたくない」気持ちが “買う” を促進する
この心理が購買行動にどう影響するか、先ほどのペンの例をイメージするとわかりやすいでしょう。
ポジティブな訴求:「このペンは書き心地がよく、高級感があり、ステータスを感じられます」
ネガティブな訴求:「このペンがないせいで、大事な契約書にサインできず、ビジネスチャンスを逃してしまう可能性があります」
後者のように “もたないことで損をするシーン” を強調されたとき、人は「そうなったらどうしよう……」と不安を感じ、「損失回避」のスイッチが入る。結果的に、「いま買わなければ!」という強い衝動につながるわけです。
「買ってしまう」心理を生むトリガーたち
ロス・アバージョンに限らず、人間が「つい買ってしまう」背景にはさまざまな心理トリガーが潜んでいます。
1. 社会的証明(みんなもっている、売れている)
「周囲の人が使っている」「SNSで話題」だと、不思議と欲しくなる。自分だけがもっていないと感じると、不安を覚えることも。
2. 希少性(限定品、在庫わずか)
「数量限定」「期間限定」「残りわずか」という表現を見かけると、それだけで購買意欲が高まる。「いま買わないと手に入らないかもしれない」という損失回避が働くためです。
3. アンカリング効果(比較でお得に見える)
高額商品を見せた後に、少し安い商品を提示されると「お得」と感じてしまう。価格比較で生まれる “相対的な価値” が、購入を後押しします。
こうした心理の仕掛けは、私たちの日常の買い物体験に当たり前のように組み込まれていて、意識しないうちに行動を左右されています。
それでも私たちが「買う」のをやめられない理由
買い物の意思決定プロセスを詳しく見ていくと、私たちは思っている以上に感情的な存在かもしれません。理性と感情が織りなす購買心理の真の姿に迫ってみましょう。
感情が先か、理性が先か
人間の購買行動には、感情が先立ちやすいことが多いと言われます。「欲しい」と思った瞬間に買う理由を探す――そんな逆転現象が起こりやすいのです。ロス・アバージョンなどの仕掛けは、私たちの不安や焦りといった感情にダイレクトに作用し、「いま買わないと損」という気持ちを膨らませます。
経済合理性を超えたところで起こる“買い物”
もちろん、すべての買い物が「ロス・アバージョン」によるものではありません。しかし、財布のひもを解く瞬間には、意外なほど「合理性だけでは説明しきれない感情」が影響しているのも事実です。
必要だから、得だからといった理由を超えて、私たちは「なぜか心が動かされて」お金を払ってしまうことがある。それこそが人間らしい購買の姿といえるのかもしれません。
私たちはこうして「買ってしまう」
人間の購買行動を動かす3つの重要な心理メカニズムを整理してみましょう。これらの要素が複雑に絡み合い、私たちの「買う」という行動を形作っているのです。
「必要性」を自覚すると、人は強く買いたくなる
ただ商品がすばらしいだけでは足りません。「ないと困る」「もたないと損をする」という状況が生まれたとき、“買う” という行動に火がつきます。
ロス・アバージョンが購買行動を後押しする
「損をしたくない」という人間の本能的な心理が、「買わないと取り返しのつかないことになるかも」という恐れを刺激し、購入へと導きます。
じつは私たちは感情に左右されている
理性的に考えているつもりでも、日常の買い物の多くは “衝動” や “感情” によって動かされています。周囲の評判、希少性、比較の巧妙さ――さまざまな仕掛けを経て、気づけば商品を手にしているのです。
映画の一場面を引用した「このペンを売ってください」の例は、単なるセールストークのおもしろネタではありません。
そこには、人間が「ものを買ってしまう」行為の本質が凝縮されています。私たちの中には「欲しい」という心と、「必要だ」と感じる心がせめぎ合いながら、さらに「もたないと損をする」という不安がかき立てられることによって買う方向へと一気に傾いてしまう——そんなドラマが常に潜んでいるのです。
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次にあなたが何かを「つい買ってしまう」瞬間が訪れたら、それはどんな感情が背中を押したのか、改めて考えてみてはいかがでしょうか。そこには、ロス・アバージョンなどの心理バイアスが隠れているかもしれません。それでもなお私たちは、今日も心を揺さぶる何かに出会ったとき、迷いつつも思わず買ってしまう——そこにこそ、人間的な楽しさやワクワク感があるのかもしれません。