
新規事業、新製品、あるいはあなたの提案するコンサルティングサービス。
いずれも客観的に見て「顧客に利益をもたらす」はずなのに、なぜか前に進まない。
競合より優れている自信はある。価格も妥当だ。メリットも正しく訴求している。
それでも顧客は動かない。
多くのビジネスパーソンは、その原因を「競合の優位性」や「製品のメリット不足」、あるいは「ベネフィット訴求のずれ」に求めます。しかし、私自身の経験から言えば、それは構造的な誤認です。
StudyHackerにはたくさんの「心理」の話が掲載されています。
今回はいつものマーケティングの記事とは少しトーンを変えて、「顧客が動かない理由」をStudyHackerらしく顧客心理の側面から掘り下げます。
真の障壁は、あなたの製品やサービスにはありません。顧客の心の中にあるのです。
ベネフィット訴求だけでは、まだ足りない理由
私自身、創業当初、予備校の代表としてマーケティング実務を兼任していた頃、大きな壁に直面しました。その壁は、私たちが段階的に行った二つの訴求戦略、その両方に跳ね返されて初めて見えてきたものです。
失敗の段階1:特徴の訴求(専門用語を並べるだけ)
まず、私たちはサービスの核である「第二言語習得研究に基づいた科学的メソッド」という【特徴】を前面に出しました。
しかし、顧客の反応は鈍い。
「第二言語習得研究」という聞き慣れない専門用語は、そもそも顧客の関心を引くことすらできませんでした。
失敗の段階2:ベネフィットの訴求(不安を残したまま利益を語る)
次に、私たちは戦略を修正し、「短期で英語力が爆発的に向上する」という【ベネフィット】に焦点を当てました。
確かにメリットは伝わり、顧客の関心は得られました。購買も起こりました。しかし、想定したほどの成果には届かない。
なぜなら、顧客はメリットの裏で、新しい学習法への「難しさ」や「失敗のリスク」、そして「今の安定が崩れること」を天秤にかけていたからです。
転機:「ある文言」を加えただけで、反応が変わった
試行錯誤の末、私たちは広告に「ある文言」を加えてみました。
すると、それまで伸び悩んでいた成果が、明らかに改善し始めたのです。
なぜ効いたのか。私たちは分析を重ねました。
そこで見えてきたのは、顧客を「購買」から阻んでいた最後の壁の正体でした。
それは競合他社ではありません。「変化への恐怖」であり、「失敗したくない」という心理的な抵抗、すなわち「現状維持バイアス」です。
顧客は現状を維持することに、変化を選ぶこと以上の「価値」を見出していたのです。

なぜ、利益の話より「損失の痛み」が2倍効くのか
この「変化への恐怖」の強さを理解するには、行動経済学の知見が不可欠です。
ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンらが提唱したプロスペクト理論によって、この心理は科学的に裏付けられています。*1
プロスペクト理論の根幹にあるのは、人間が「利益の獲得」よりも「損失の回避」に対して約2倍強く反応するという損失回避の法則です。*2
ビジネスの現場では、この損失回避性が、「失敗したくない」「損をしたくない」という心理的コストとして現れます。
現状維持バイアスを「破壊」する3ステップ
現状維持バイアスは感情的な抵抗ですが、その破壊は極めてロジカルでなければなりません。
以下に、私たちが実践してきた、意思決定の障壁を設計的に解除するための具体的な3ステップを提示します。
ステップ1:現状維持の"隠れた損失"を可視化する
人は「得られるはずの利益」を逃すことよりも、「持っているもの」を失うことを恐れます。
まず行うべきは、顧客の「現状」が安泰ではないことを数字で突きつけることです。
【自社事業からの実践例】
(例:予備校時代の集客)
私たちは広告に「英語に時間をかけすぎるのは、受験全体を見ると得策ではない」という文言を加えました。
英語学習に膨大な時間を費やしている現状が、実は他教科の学習時間を圧迫しているという「隠れた損失」を可視化したのです。
そのうえで、「短時間で効率的に学習できる」という私たちのメソッドを提示しました。
顧客の現在のやり方(現状維持)を、「気づかないうちにコストやリスクを払い続けている状態」として再定義する。これが、あの「ある文言」の前半部分でした。
ステップ2:変化の心理的コストを最小化する
損失回避性が発動する最大の原因である「失敗の可能性」という心理的コストを下げることで、変化への抵抗を一気に弱めます。
【自社事業からの実践例】
私たちは、顧客の恐怖をゼロに近づけるため、創業当初から「30日間の無条件返金制度」を設けました。
「申込数」と「返金率」という指標を追いかけると、申込数は明確に増えた一方で、返金率は1%以内に収まりました。
いまではこれは単なる顧客サービスではなく、「金銭的な損失がない」「確かな根拠がある」という確実な安心を提供することで、顧客の最大の抵抗源である『変化への恐怖』を先に無力化するための設計された仕組みだと位置づけています。
そしてこれが、あの「ある文言」の後半部分でした。
ステップ3:最小限の変化で"最大の安堵"を売る
最後に、ソリューションがもたらす利益を語る前に、「損失からの解放(安堵)」を核心的な価値として提示します。
【自社事業からの実践例】
私たちが売っていたのは、「合格のための学力向上」です。
しかし、それを買ってもらうために必要だったのは、「不安の解消」でした。
「英語に足を引っ張られるかもしれない」という恐怖を先に取り除くことで、受験生は安心して購入を決断できるようになる。
購入のハードルを下げたのは、サービスの質やベネフィットの訴求だけではなく、「新しいサービスに飛び込む不安」を先に解消したことだったのです。

安堵と機能。購買を駆動する「非対称な」エンジン
現状維持バイアスを克服するための戦略は、相手の心の持ちようを変えるためのハックです。
私たちは、安堵感を与えることで顧客の「変化への恐怖」という巨大な壁を先に取り払います。
壁が崩れた後、初めてあなたのソリューションの機能とベネフィットが、「実現可能な価値」として顧客の意思決定に貢献するのです。
明日つくる提案資料の、「メリット列」の隣に必ず「現状維持した場合の損失列」を1つ追加してみてください。
その1列だけで、プレゼン全体のトーンが変わるはずです。
顧客は、あなたの製品やサービスがもたらす素晴らしい未来を求めていると同時に、今抱えている潜在的なリスクから解放され、安堵したいと強く願っています。
その安堵を提供して壁を取り払い、改めて機能の優位性を提示する戦略こそが、あなたのビジネスを前進させる鍵となります。

現状維持バイアスに関するFAQ
Q. なぜ優れた製品でも顧客は動かないのですか?
A. 顧客が真に恐れているのは、製品の良し悪しではなく「変化に伴う失敗」という不確実性です。現状維持バイアスにより、変化のリスクを過大評価し、現状を維持しようとする心理が働いています。
Q. 損失回避を活用する際の注意点は?
A. 恐怖を煽るのではなく、「現状維持のリスク」を客観的に可視化することが重要です。その上で、変化の心理的コストを下げる仕組み(返金保証など)を用意し、安堵を提供することで自然な行動変容を促します。
▼ 企業SNS運用の連載記事
*1 Daniel Kahneman, Amos Tversky (1979), "Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk," Econometrica, Vol.47, No.2, pp.263-291.
*2 Amos Tversky, Daniel Kahneman (1992), "Advances in Prospect Theory: Cumulative Representation of Uncertainty," Journal of Risk and Uncertainty, Vol.5, No.4, pp.297-323.
岡 健作(おか・けんさく)
スタディーハッカー 代表取締役社長
1977年生まれ、福岡出身。同志社大学卒業。2010年に創業。「Study Smart(合理的に学ぶ)」をコンセプトに、科学的知見に基づく英語パーソナルジム「ENGLISH COMPANY」を設立し、人気ブランドへと成長させる。 事業拡大の要として、自らオウンドメディアとSNSの編集長を兼任。オウンドメディアは最大500万PV、Instagramでは月間700万PV、フォロワー27万人規模のメディアにするなど、広告費に依存しない集客モデルを確立する。現在はその知見を活かし、「企業の認知獲得の専門家」として、論理とデータに基づいた再現性の高いメディア戦略・ブランディング論を発信している。
X→@oka_kgs / Instagram→@oka_ken2010
/ 著書(amazon)